パンクの女王「パティ・スミス」

パンクの女王と呼ばれる「パティ・スミス」。
彼女は1946年にシカゴで生まれ青春時代をニュージャージーで過ごし、アルチュール・ランボーやボブ・ディランのような詩人になることを決意し、ニューヨークに移住しました。現代の吟遊詩人との異名を持つ彼女の生きざまを紹介します。

ミュージシャン「パティ・スミス」を形成したニューヨーク・チェルシー地区

パティ・スミスのアーティストとしての人生は、青春時代を過ごしたニュージャージーからニューヨークに移り住んだことからはじまりました。
1969年、23歳のときにニューヨークに出てきたパティは新進気鋭の写真家「ロバート・メイプルソープ」との共同生活や、ウィリアム・バロウズ、アレン・ギンズバーグ、アンディー・ウォーホルといったアーティストとの交流を通して芸術活動にのめり込んでいきました。
ちなみにパティはニューヨークに出る前の1967年、21歳のときにニュージャージーで女の子を私生児として生み、まもなく養子に出していたという事実があります。
その後はなかばホームレスのようなニューヨークでの極貧生活を送り、同じく貧しい写真家であったロバート・メイプルソープと出会います。

パティはメイプルソープと共に若いアーティストたちが集まるエリアのマンハッタン・チェルシー地区にあるチェルシー・ホテルへ引っ越しすることにしました。

当時チェルシー・ホテルは新進気鋭のアーティストたちが集まるサロンのような様相を呈しており、チェルシー・ホテルに集まる幅広い分野のアーティストと触れ合うことでパティは感性を鋭く磨き上げていきました。

パティが音楽の世界に足を踏み入れることになったのには、ギタリストである「レニー・ケイ」との出会いが大きく関係しているといわれています。

パティ・スミス独自の詩を朗読するような表現スタイルのきっかけになったのは「レニー・ケイ」の演奏をバックにして上演したポエトリー・リーディングでした。

その独自な吟遊詩人のような演奏スタイルは、悶々としたニューヨークの若者たちを魅了していきました。
その後も、レニー・ケイはパティのバンドメンバーの一員としてアーティスト活動を共にする欠かせない存在となりました。
ロックシーンの全盛期を迎えようとしていたニューヨークでパティの独自の音楽スタイルはメディアの間でも話題になっていました。

その後、マンハッタンにあるライブハウス「CBGB」の出演し、29歳になる前の1975年にアリスタ・レコードより「ホーセス」でメジャー・デビューしました。
新進気鋭の写真家としてデビューしたばかりの「メイプルソープ」が「ホーセス」のジャケット写真を手がけたことも各方面から注目を集める要因になりました。

「ホーセス」をプロデュースしたのは名音楽プロデューサーと名高い「ジョン・ケイル」氏で、詩の朗読(ポエトリーリーディング)とパンクロックを組み合わせたパティ独自のスタイルは、騒々しい1970年代を生きる若者からの支持を得ることに成功しました。

特に「グローリア」はニューヨークパンクの代表作として今も語り継がれている名曲となっています。

その後「ロバート・メイプルソープ」は自身の同性愛的思考に目覚め、パティとの恋人としての関係は解消しています。
しかし、パティとメイプルソープは生涯において同士のような関係性を維持し、男女関係以上の深い人間関係を築き上げていきます。
2人の関係は常に深い信頼と愛情、芸術への深い共感で結ばれていました。


1975年のセンセーショナルなデビューを果たした翌年、パティはセカンドアルバム「ラジオ・エチオピア」をリリースします。
アルバム自体は高い評価を受けたものの、納得がいかなかったパティは当時メジャーロックシンガーのサウンドを担当していた「ジャック・ダグラス」をプロデューサーとして迎え入れます。

アーティストとして軌道に乗りはじめた矢先の1977年、ライブ中に舞台上から4m下の床へ落下する事故が発生。
パティは首や頭部に大怪我を負い、2年近くのリハビリ生活を余儀なくされます。
リハビリ期間中にベッドで書かれたのが有名な詩集「バベル」です。

詩人としてのパティ・スミス

舞台から転落して大怪我を負ったパティがベッドで書きとめた詩集「バベル」は一躍有名になりました。
そもそも、パティのアーティストとしての活動は音楽ではなく詩作からスタートしています。

イリノイ州シカゴで生まれたパティは、幼い頃から身体が弱く病気がちであったといいます。
彼女は一人空想にふけることを好み、両親が読書家だったことから、本に包まれた環境で育ちます。
一家はシカゴからニュージャージーの片田舎へ引越し、父は工場で夜勤の仕事をしながら一家を養っていました。

幼いパティに母が買い与えたのがボブ・ディランのレコードでした。
パティはボブ・ディランの詩の世界に魅了されます。
ボブ・ディランの音楽が、パティの中で別物だと思っていた音楽と詩の世界を結びつけました。
同じ頃手に入れたアルチュール・ランボーの詩集も夢中で読み耽り、彼女は詩の世界に没入していきました。

21歳になったパティは、工場で働いて貯めたなけなしのお金を握りしめ、単身でニューヨークに飛び出しました。
『ニューヨークに出てきた目的はボブ・ディランやランボーのような詩人の愛人になるためだった』とパティは後に回顧しています。
愛人ではなくパティ本人が詩人になると決意させたのは当時同棲していた「ロバート・メイプルソープ」でした。

当時、アーティスト界の有名なスポットであった「チェルシー・ホテル」にロバート・メイプルソープと2人暮らしで刺激的な芸術家たちと交流するなか、戯曲の執筆を依頼されたり、ポエトリーリーディングに出演したりと、徐々にアーティストとしての活動の幅が広がりはじめます。

アンディー・ウォーホルのファクトリー常連であったジェラルド・マランガがセント・マークス教会でポエトリーリーディングを開催することになりました。
このジェラルドが主催するポエトリーリーディングの前座での出演が決まったパティは、ギタリスト「レニー・ケイ」の伴奏に詩をのせてポエトリーリーディングを披露することになります。
このときのパティのポエトリーリーディングは沢山のメディアから注目を浴び、一躍話題となりました。
ポエトリーリーディングのような音楽スタイルがその後のパティの音楽活動を方向付けることになりました。


パティ・スミスのファッション

パティ・スミスはファッションに関しても話題性の絶えないアーティストです。
ロバート・メイプルソープの写真集にしばしば登場する中性的な風貌で、擦れたダメージのあるスエードのジャケットはところどころ自分で手を加えてDIYしているそうです。

メンズ風のジャケットを腕まくりして無造作に着こなすパティ。
彼女は自由な反骨精神でタブーに挑戦し続ける「コム・デ・ギャルソン」や「アン・ドゥムルメステール」のファッションをよく好んで着ています。

パティ・スミスといえばノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランの代役として授賞式に出席したことが話題になりました。
今後のますますの活躍を期待したいと思います。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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