鬼才!ジョン・フルシアンテがレッド・ホット・チリ・ペッパーズにもたらした奇跡の軌跡

レッド・ホット・チリ・ペッパーズ(以下レッチリ)というバンドをご存知だろうか。
1983年に結成され、1991年にはグラミー賞のハードロック部門最優秀シングル賞を受賞している。アメリカはカリフォルニア州出身のロックバンドで、そのサウンドを変幻自在の骨太なギタープレイで支えていたギタリストこそ、先代ギタリストの「ジョン・フルシアンテ」だ。
レッチリは今まで度重なるギターとドラムのメンバーチェンジを乗り越え、現在もなお世界中で多くのファンを魅了している。

ジョン・フルシアンテの生い立ち

ジョンは1970年にニューヨークでミュージシャンの両親の元に生まれたが、両親の離婚後、12歳の時にレッチリ結成の地となるカリフォルニアへ母親と共に引っ越した。9歳からギターを始め、すぐにギターの虜となり夢中で練習をした。(ジミ・ヘンドリックスやフランク・ザッパなどの影響があった。)
それから数年が経ち、彼が初めてレッチリを観たのはテレビの画面に映った姿だった。

ファンからレッチリの正式メンバーになったジョン・フルシアンテ

ジョンは15歳の頃からレッチリの熱狂的なファンの一人であったため、レッチリのライブに頻繁に足を運び、家ではレッチリの曲をギターだけではなく、歌やベースまで完全にコピーするほどのめり込んだ。
レッチリ初代ギタリストのヒレルが薬物の過剰摂取で亡くなった時、レッチリはすでにかなり有名なバンドであった為、後任ギタリストのオーデイションには多くの経験豊かなギタリストが参加したにも関わらず、バンドすら未経験のジョンがなぜ選ばれたのか。
それは、技術はもちろんのこと、レッチリに対する揺るぎない愛と熱意があったからだ。

ジョンが加入してからの作品

初期のレッチリはファンクというよりはハードコアパンク色が強めのファンクであった為、初代ギタリストのヒレルの後を引き継いでギタリストとなったジョンも、尊敬するヒレルのギタースタイルを引き継いでのプレイスタイルではあったのだが、”大好きなヒレルのような”ギターを弾く人物から、ギタリストとしてのアイデンティティを確立していく過程で、サウンドがどんどん変化していく。
その変化が2度に渡る脱退に繋がるのだが、その歴史を紹介したいと思う。

母乳(1989年)

(母乳/Good time Boys)

レッチリとしては4枚目のアルバムで、この作品からフルシアンテと同時にドラムのチャド・スミスが加入。
全曲を通して、一聴しただけでパワー型なのはもちろんのこと、繊細かつダイナミックにビートを刻んでいることがわかる。そのビートの上でフリーのベースが絡み、そこには初々しさの欠けらもないフルシアンテのギターでの表現が爆発している。この実質このアルバムからジョンの音楽キャリアが始まったのだ。
とはいえレコーディング経験のないジョンにとって、絶対的な権力を持っているプロデューサーであるバインホーンからのプレイや音作りなどの変更要求はかなり辛く、口論などもかなり多くあったようだ。結果的にアンソニーとバインホーンが揉めて絶交するという結果になってしまったのである。

ブラッド シュガー セックス マジックBlood Sugar Sex Magik(1991年)

(Blood Sugar Sex Magik/The Power of Equality)

ワーナー・ブラザーズへと移籍後、新しいプロデューサーのリック・ルービンを迎え作成された、レッチリとしては5枚目(ジョン加入から2枚目)のアルバムである。
このアルバムでのジョンは既に”高度なヒレルのマネ”ではなくジョン自身の中で消化された経験からのギターサウンドが完成されており、バンドサウンド内でも存在感が際立っている。そして全体を大きくコーティングしているようにも感じさせてくれる。
ちなみに収録されているGive It Away(ギブ イット アットウェイ)はシングルカットされグラミー賞を受賞している。

レコーディングの際のエピソードを一つ紹介しよう。

レコーディングはプロデューサーであるリック・ルービンの洋館に泊まり込みで行われたのだが、その洋館には女の幽霊がでるという噂があった。その噂を耳にしたドラマーのチャド・スミスだけは自宅へ毎回帰ったというエピソードがある。
ちなみにフルシアンテは女の幽霊の声をよく聞いたとのことで、その為我慢ができず自慰をしていたとのこと、やはり天才は変わっている。

ジョン1回目の脱退から復帰まで

ブラッド シュガー セックス マジックで一気に世界的な人気バンドになったレッチリ。
その立役者の一人となったジョンは1992年にライブのため訪れていた日本でのライブをキャンセルし突然脱退、帰国した。
急速にスターダムにのし上がったストレスやプレッシャーからか薬物依存とひどい鬱に悩まされており、帰国後も薬物はやめられず、体も歯もボロボロになり、薬物を購入するためだけに無理やりソロのCDを出していたジョン。
最終的に商売道具のギターやアンプすら売り払ってホームレスになってしまう。
薬物漬けの数年間はジョンにとって人生で一番苦しかったに違いない。

その後友人の勧めで薬物更生施設に入っていたジョンは、治療の末にようやく退院。

余談だが、薬物更生施設に入っていた間にジョンの穴を埋めるようにレッチリに加入した、デイヴ・ナヴァロが貸してくれていたギターすらも、薬物を買うために売り払ったのだとか。
後で別ギターを渡して謝罪した模様とのことだ。

薬物を完全に絶ったジョンがベーシストのフリーに誘われてレッチリに復帰するのは1999年。既に7年もの月日が経過していた。

カリフォルニケイション(1999年)

言わずと知れたレッチリ7枚目の名盤でジョンの復帰作だ。
薬物でボロボロになり、ギターにまったく触らなかった期間を経ての復帰であっため、全体的にジョンのプレイがかなりシンプルになっている。
ただし、そのシンプルなフレーズには、ジョンが乗り越えてきた人生のすべての困難や苦悩に対する静かな生命力が感じられ、音一つ一つに哀愁が漂っている。
ジョンはただただシンプルな音を鳴らすだけで、ベースのフリーはその隙間を埋めるように寄りかかりあう安心感があった。
結果的に、このアルバムに収録されたスカー・ティッシュはレッチリで2回目のグラミー賞を受賞し、最高の復帰作となる。

バイ・ザ・ウェイ(2002年)

(By The Way MV)

レッチリ8枚目のアルバムにして鬼才フルシアンテ完全復活、どころかこのアルバムは完全にフルシアンテ色になり仕上がっている。
脱退前のように若くヤンチャな音が全面に出ているわけでもなく、前作のように振り絞るような音でもなく、復活どころかギタリストとしてさらに成熟したことを痛切に感じる作品となっている。
またジョンのコーラスがもう一つの重要なアクセントとなっていて、メロディアスなコーラスはもちろんのことバイ・ザ・ウェイでは声を歪ませることで独特な世界観を醸し出している。

ステイディアム・アーケイディアム(2006年)

ジョン・フルシアンテがレッチリのメンバーとして最後に出したレッチリ9枚目の二枚組アルバム。前作に続き、ジョンがギターとコーラスに加え、キーボードやシンセサイザーなど様々な音を加え、アルバム全体の曲を装飾している。
驚くことに、このアルバムに関してはいくつかの曲以外、曲間に入るギターソロをアドリブで録音している。好みは分かれそうだが、フリーも自信満々に語っている。

「このアルバムが嫌いだということは、すなわちレッチリが嫌いだということ」

引用(Wikipedia):/ステイディアム・アーケイディアム

今思うと、この二枚組アルバムを聴いた時、ジョンは既にレッチリといった居場所を離れ、自分の中にある未だ見ぬ世界を見ようとしていたのかもしれない。

2度目の脱退、そしてTRICKFINGERとしての今。

ステイディアム・アーケイディアムのツアーを終えた時、ベーシストのフリーから「少し休止したい」との相談を受けた時点ではジョンは説得しようと考えていた。
しかし、休んでいる内に今後の音楽家としての生き方がレッチリとは離れていることを感じた為、メンバーへ伝え双方が納得した上で円満な脱退となった。
薬物依存での絶望、その絶望に向き合い復帰したからこそ、変わり続けたからこそ、常に現状維持のぬるま湯から出続けたからこそ、唯一無二の素晴らしいミュージシャンなのだろう。
“たられば”の話となってしまうけれど、ジョンが加入しなかったら、レッチリはここまでの世界的なモンスターバンドになっていただろうか。

彼は言うのだ。

「音楽というのはひとりの人間よりも大きな存在であり、人間の知識よりも遥かに賢い存在なのだ。音楽を作る行為は、俺よりも大きな存在の中に入り込んで、包み込まれるような感覚なのだ。」

引用:アルバム『Enclosure』ロングインタビューより

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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