フィンセント・ファン・ゴッホ:炎の画家

フィンセント・ファン・ゴッホは1853年オランダに生まれた画家です。後期印象派の代表的な画家であり、感情を率直に表す大胆な色使いは、後の画家たちに多大なる影響を与えました。彼の生涯と作品とは、どのようなものだったのでしょうか。

■フィンセント・ファン・ゴッホとは

フィンセント・ファン・ゴッホは1853年オランダ南部の北ブラバント州ズンデルトで、オランダ改革派の牧師である父テオドルス・ファン・ゴッホと、ハーグの豊かな家庭出身である母アンナ・コーネリア・カルベントスとの間に長男として誕生しました。ゴッホにとって生涯の理解者は、次男のテオでした。

1860年ズンデルト村の学校へ入学し、1864年ゼーフェンベルゲンの寄宿学校に入学。しかしゴッホはホームシックになり、1866年ティルブルフの国立高等市民学校へ進学することとなります。

ゴッホは若い頃から芸術に強い関心を寄せており、母はそんな彼の才能を伸ばすべく、後押しをしました。
学校という場所に絶望していた彼は、画家のコンスタンチ・C・フイスマンスが授業をしているのを知り、一縷の望みを抱きますが期待したものではなく、在学期間1年を残して学校を辞めてしまいました。

1869年16歳の時、叔父の紹介で美術商のグーピル商会ハーグ支店で働くようになります。ゴッホは仕事で成功し、20歳の時には父親よりも多くの収入を得るほどでした。1873年にはグーピル商会のロンドン支店へ移り、ストックウェルにあるハックフォード・ロード87番地で勤務することとなります。

ロンドンでは下宿先の娘に恋をし、告白するも断られてしまいます。この出来事をきっかけとして宗教に関心を抱くようになります。ゴッホはグーピル商会を退社し、寄宿学校での臨時教師として働いたものの、聖職者になることを希望し、1877年にはアムステルダムの著名な神学者であったヨハネス・ストリッケルのもとに身を寄せることとなります。

ゴッホはアムステル大学の神学部への入学を希望していましたが、入学試験に失敗。その後ブリュッセル近郊のラーケンにあるプロテスタント宣教師学校で3カ月間のコースを受講するも、挫折してしまいます。こうした状況にも関わらず、ますます信仰に没頭するようになり、ベルギーのボリナージュ地方のプチナムにて伝道活動を開始します。しかし、このような過剰な活動は伝道師の威厳を損なうものとして、教会からの支援を打ち切られてしまいます。

1881年にゴッホは両親のもとへ戻り、そこでは田園風景や農夫たちなど、身近な人々を主題としてドローイングを行っていました。この頃母の姉、ウィレミニアとヨハネス・ストリッケル牧師の娘がゴッホ邸に滞在しており、彼女に恋をしてしまいます。しかし、ゴッホの思いを拒んだ彼女への執着心は増し、周囲は彼の精神を気に病むようになっていきます。この頃義理のいとこで画家として成功しているアントン・モーヴから支援を受けるものの仲たがいしてしまい、再びアルコール依存症の娼婦クラシーナ・マリア・ホールニクと同棲を始めるなど、ゴッホの人生は加速度的に破綻していきます。

そうした状況の中で描かれたのが1885年に描かれた《ジャガイモを食べる人々》でした。農夫を描き続けた集大成として完成したこの作品は、ゴッホによるはじめての本格的な作品であり、パリの画商から徐々に関心を持たれるようになっていきました。また弟のテオが個展開催の準備をし、そこで農夫のポートレート作品を展示しています。しかしパリで彼の作品が売れることはなく、1885年11月にはハーグからアントワープへ居を移します。

アントワープでは色彩理論の研究をはじめ、ルーベンスや日本の浮世絵に大きな影響を受けるようになります。しかしゴッホはアルコール中毒や梅毒を患い、美術大学の教授たちと衝突を起こすなど、またしても問題が絶えませんでした。結局学校を退学し、パリへ移ることとなります。

1886年にはモンマルトルのルーブル通りにある、弟テオのアパートで共同生活をはじめ、フェルナン・コルモンのもとで絵を学ぶようになります。この頃のパリではジョルジュ・スーラやポール・シニャックをはじめとした後期印象派の画家たちが台頭しており、ゴッホもアスニエールでシニャックを知り、点描を制作に取り入れるようになっていきました。パリでの生活は彼に多大な刺激を与えましたが、そうした生活に疲れてしまい、休暇も兼ねてアルルへ居を移すこととなります。

アルル滞在時、ゴッホは200点の絵画、100点以上のドローイングや水彩絵画を制作するなど、非常に生産的な時間を過ごしていました。1888年にはゴーギャンがアルルを訪れ、彼が考えた芸術家たちのコミュニティに理解を示し、共同制作をはじめます。しかし徐々に二人の関係は悪化し始め、口論の末1888年12月23日にはゴッホが自ら耳たぶを切断する事件が発生しました。この頃から彼の精神は極端に悪化しはじめ、サン・レミの精神病院へ入院します。

病状は回復しつつあったものの、1890年7月27日には怪我を負ったゴッホがオーヴェルのラヴー旅館へたどり着き、そこで倒れた彼は2日後の29日37歳という若さで亡くなりました。翌1891年、弟テオも兄の後を追うように亡くなり、2人はユトレヒトの市営墓地に埋葬されています。

■ゴッホの作品

ゴッホは学校にもなじめず、恋にも破れ、徐々に精神を病んでいきました。それに比例するかのように彼の作品は激しく、感情を揺さぶられるような表現になっていきます。以下では主要な作品を中心にご紹介します。

(Public Domain /‘The starry Night’by Vincent Willem van Gogh. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

・《星月夜》1889年

本作品は1889年に制作された作品で、現在はニューヨーク近代美術館に所蔵されています。月と星がいっぱいの夜空と大きな渦巻が描かれている作品で、ゴッホの代表的な作品として知られています。

本作品はサン・レミの精神病院にゴッホが入院していた折、部屋の東向きの窓から見える村の風景を描いたものです。絵の左側に描かれた大きな黒っぽい影は糸杉です。糸杉は、欧州の文化や神話で死の象徴または死者への哀悼を意味するといわれており、当時の精神状態の悪さを感じさせます。また中央に見える教会は、実際に窓の外には見えるはずのない故郷オランダの教会で、彼の記憶をコラージュした作品になっています。

(Public Domain /‘The Night Café’by Vincent Willem van Gogh. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

・《夜のカフェ》1888年

本作品は1888年に制作された作品で、現在はエール美術大学が所蔵しています。アルルのラマルティーヌ広場30番地にあったゴッホが寝泊まりをしていたカフェ「カフェ・デ・ラ・ガール」の店内を描いた作品です。天井や壁の緑色や赤色、ガスランプの黄色などのくすんだ色味が、このカフェに暗い雰囲気を漂わせているように思われます。また、ゴッホが同じくカフェを題材に描いた「夜のカフェテラス」とは違う店です。

■おわりに

フィンセント・ファン・ゴッホは後期印象派を代表する画家であり、西洋美術史においても多大なる影響力をもった画家です。わずか10年の活動期間のうち、2100点以上の作品を制作し、その大胆な色使いや激しいタッチは表現主義をはじめとした20世紀の芸術家たちに多大なる影響を与えました。

こうした画家としての功績の一方で私生活は問題ばかりであり、アルコール依存症や梅毒に苦しめられる生涯でした。彼のすさまじいまでの表現力は、苦しい人生を糧にしたものだったのでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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