エドゥアール・マネ:近代美術の創始者

エドゥアール・マネは1832年フランス、パリの裕福なブルジョワジーの家庭に生まれました。最初は法律家になることを目指していたものの、伯父の影響から芸術家になることを決意し、《草上の昼食》や《オランピア》といった西洋美術史に残る傑作を残すこととなります。そんな彼の生涯と作品とは、どのようなものだったのでしょうか。

■エドゥアール・マネとは

エドゥアール・マネは1832年パリのプティ=ゾーギュスタン通りの大邸宅で、フランスの裁判官であった父オーギュスト・マネと、外交官フルニエ家の娘であった母ウジェニー・デジレ・フルニエのもとに生まれました。父親は彼に法律の道へ進むことを期待したものの、母方の叔父エドゥアール・フルニエの影響で、この頃から芸術に関心を持つようになります。海軍の入隊試験を二度受けたものの、すべて失敗してしまったため、父親も彼の意思を尊重し、画家への一歩を踏み出すこととなります。

1850年から1856年はアカデミズムの歴史画家であったトマ・クチュールの下で学び、1853年から1856年はドイツ、イタリア、オランダなどを旅して巨匠たちの作品を模写し、画力を高めていきます。1856年には友人の画家との共有でアトリエを開き、写実主義の作品を描くようになっていきました。1850年から1856年はアカデミズムの歴史画家であったトマ・クチュールの下で学び、1853年から1856年はドイツ、イタリア、オランダなどを旅して巨匠たちの作品を模写し、画力を高めていきます。1856年には友人の画家との共有でアトリエを開き、写実主義の作品を描くようになっていきました。

1863年になると、初期の傑作となる《草上の昼食》を出品しましたが、サロンでの展示を拒否されてしまい、落選展で展示されることとなります。着衣男性とヌードの女性が描かれていることで、批評家はもちろん、一般の人々からも酷評されました。しかし、現実の裸体の女性を描くという手法は画期的なことであり、近代美術のはじまりといわれています。

また、1865年には裸婦がベッドに寝そべる《オランピア》を出品し、入選しました。しかし、サロンに出品されるや否や《草上の昼食》以上のスキャンダルとなり、意気消沈してしまいます。想像以上の批判に辟易したマネは、スペインへ旅行に向かいました。マドリードの王立美術館でベラスケスを中心とするスペイン絵画に触れ、批評家テオドール・デュレとも知り合いとなり、創作意欲を高めていきました。

1866年になると、サン・ラザール駅近くのサン=ペテルスブール通りに居を構え、以降亡くなるまでこの地で制作を続けました。1866年には《笛を吹く少年》を出品するも落選し、1867年のパリ万国博覧会ではマネの作品が展示されることはありませんでした。展覧会場から遠くないアルマ橋付近に、多額の費用をかけてパビリオンを建て、10年近くにわたる主要作品50点を展示する個展を開きました。この展覧会で出品された作品を称賛した批評家もわずかにいたものの、結局求めたような評価を得ることはできませんでした。しかし、クロード・モネやフレデリック・バジールら若い画家たちは、サロンに頼らず自身の力で展覧会を開催するマネに影響を受けました。これが印象派展へ繋がっていくこととなります。

(Public Domain /‘A Studio at Les Batignolles’by Henri Fantin-Latour.Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

1860年後半にはルノワールやピサロ、バジールなどと知り合い、バティニョール派と呼ばれるようになっていきます。ファンタン・ラトゥールの描いた《バティニョールのアトリエ》には若手画家たちの集まりが描かれており、彼らはカフェ・ゲルボワに集まっては、新しい表現を追求するようになっていきました。

(Public Domain /‘The Balcony’byEdouard Manet.Image viaWIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain /‘Luncheon in the Studio’byEdouard Manet.Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

1869年のサロンでは、《バルコニー》や《アトリエでの昼食》が入選したものの、1870年に普仏戦争が勃発しました。パリ・コミューン成立へと続く内戦によって、しばらく制作活動に取り掛かれない日々が続きました。1870年代に入ってようやく混乱が落ち着くと、バティニョール派の画家たちがパリへ戻り、制作活動をはじめます。マネはセーヌ川の対岸ジュヌヴィリエに広大な土地を有しており、自らも制作活動を行いながら、モネをはじめとした画家たちへの支援も行っていました。

(Public Domain /‘A Bar at the Folies-Bergere’byEdouard Manet.Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

1880年になると、16歳の時にブラジルで感染した梅毒の症状が悪化し、左足の壊疽が進んでいきました。静養のためパリ郊外のベルビューに滞在したものの、大きな油彩画を制作することが難しくなり、晩年はパステル画を数多く描いています。1881年から1882年にかけて、《フォリー・ベルジュールのバー》の制作に携わるものの、1883年には壊疽が進行した左足の切断手術を受けました。しかし経過は悪く、高熱に浮かされた末に51歳でその生涯を閉じました。現在パリのパッシー墓地に埋葬されています。

■マネの作品

マネは印象派の画家たちのリーダーと見なされていましたが、彼は保守的な人物であり、サロンで成功することを切望していました。実際にサロンへの出品を続けており、印象派の画家たちと作品を出品することに対し、消極的でさえありました。

彼の意志に反して《草上の昼食》や《オランピア》といった作品は、フランス美術界でも最大級のスキャンダルとなり、主題や造形の面において大きな議論を投げかけることとなってしまいます。そんな彼の作品とはどのようなものだったのでしょうか。主要な作品を中心にご紹介します。

(Public Domain /‘Luncheon on the Grass’byEdouard Manet.Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

・《草上の昼食》1862年-1863年

1862年から1863年に制作された作品で、現在はパリのオルセー美術館に所蔵されています。1863年のサロンへ出品したものの、当時裸体の女性像は神話画に限られており、現実に存在する女性の裸体像を描くことは衝撃的でした。そのため、サロンで落選してしまい、その後落選展で展示されたものの、再度酷評されてしまいます。

本作品の基になっているのは、ティツィアーノの《田園の奏楽》やラファエロの《パリスの審判》であり、古典巨匠たちの作品を模写していた影響が見られます。また、本作品は19世紀以降の画家たちに多大なる影響を及ぼし、モネは1867年の《水浴》と題した作品を《草上の昼食》に改題、セザンヌやピカソも《草上の昼食》というタイトルで描くなど、後進の画家たちも同様の主題に取り組みました。

・《オランピア》1863年(1865年パリ・サロンへ出品)

1863年に制作された作品で、現在はオルセー美術館に所蔵されています。本作品で描かれているのは、裸体の女性とメイドの女性です。裸体の女性は、サンダルと首にひもを身に付けています。こうした表現は、この女性が娼婦であることを示しており、メイドの女性が持つ花束は、客からのプレゼントであることが予想できます。ナポレオン3世の時代は売春が盛んに行われており、現実の女性を描くマネにとって娼婦を描くことは、自然なことでもありました。

全体的な構図は、1538年にティツィアーノが描いた《ウルビーノのヴィーナス》を借用しており、ここにも過去の巨匠に対するオマージュが見られます。また、1874年にはセザンヌにより《モデルヌ・オランピア》が描かれ、ルネ・ヴィクトール・オーベルジョノワは《オランピア礼賛》を描くなど、他の画家にも多大なる影響を与えました。

■おわりに

エドゥアール・マネはフランス、パリの裕福なブルジョワジーの家庭に生まれ、法律家を目指したものの、芸術への強い関心から画家を目指した人物です。生涯サロンで評価されることを望んだものの、《草上の昼食》や《オランピア》は当時の批評家から酷評され、思ったような評価を受けることはできませんでした。時代を経て、これらの作品が近代美術の名画として世界的に認められていることは、ある種の皮肉のようにも思えます。

参照

エドゥアール・マネ

草上の昼食

オランピア_(絵画)

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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