ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ:「理性、情熱、そして意志で作られた芸術」

ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌは1824年、フランスのリヨンに生まれた画家です。写実主義のクールベや印象派のマネと同じ時代に生まれたものの、シャヴァンヌの画風はそのどれにも属することなく独特です。後世の多くの画家がシャヴァンヌの影響を受けました。そんなシャヴァンヌの生涯と作品とはどのようなものだったのでしょうか。

■ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌとは

ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌは1824年、リヨンで織物業を営む名門一家に生まれました。当初シャヴァンヌは父親と同じく織物の技師になるつもりでリヨンとパリで学業に励んでいましたが、病気にかかり中断せざるを得なくなってしまいます。療養の為イタリアで1年過ごしたシャヴァンヌは、絵画に興味を持つようになり、画家になることを志すようになっていきます。

そんなシャヴァンヌが支持したのはロマン派の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワと、古典的な作風で知られたトマ・クチュールでした。特にクチュールは当時の画家でも大家で知られており、エドゥアール・マネも弟子のひとりとして作品制作に励んでいました。

画家としての修業を積んでいったシャヴァンヌは、1850年からサロンに作品を出品。しかし8年連続で落選してしまい、画家として窮地に立たされてしまいます。そんな時転機となったのが、ナポレオン3世によるパリ大改造計画でした。

19世紀半ばまでのパリは、暗く風通しが悪かったため、非常に不衛生で悪臭が立ち込める街でした。その背景には人口が19世紀初頭から半世紀の間に2倍に増加し、100万人を超えたため、人工過密で不衛生な状態になり、コレラが流行するようになってしまいました。住民は日々の生活で出る生ごみや汚物を窓から投げ捨てていたため、道のくぼみや溝につまり、またうまく流れたとしてもセーヌ川に流れ込み、川を汚染してしまっていました。1853年から1870年までセーヌ県知事を務めたオスマンはナポレオン3世の構想に沿って、大規模な都市改造計画を立案。上下水道をはじめ、学校や病院などの公共施設が次々と建設され、シャヴァンヌはそうした公共建築の壁画を依頼されるようになっていきます。

シャヴァンヌはイタリアに旅行した際にフレスコ画を学び、またその色調や表現に夢中になっていたため、壁画にはそうしたフレスコ画の影響が見られます。パンテオンの壁画やソロボンヌ大学の壁画、またボストン公共図書館の壁画も制作し、名実ともにフランスを代表する画家となっていきます。その後1867年にはレジオン・ドヌール勲章を受け、1890年にはオーギュスト・ロダンやジャン=ルイ=エルネスト・メッソニエとともに国民美術協会を創設。フランスの画家たちを導く存在となっていきました。

■シャヴァンヌの作品

シャヴァンヌの作品は立体感や遠近感、そして陰影を抑えた平面的な表現などが特長で、装飾的な画面構成であったことから、大画面の壁画に適したものでした。また大規模な壁画の仕事をこなす一方で、多数の肖像画も描いており、精力的に制作活動を行っていきました。
そうしたシャヴァンヌの作品は、神々や聖人を描きながらも静謐な雰囲気を漂わせており、後世の画家たちを惹き付けるものとなっています。そのなかにはキュビスムの創始者であるパブロ・ピカソも含まれており、彼は美術館に何回も足を運び、シャヴァンヌの絵を模写したといいます。そんなシャヴァンヌの作品とはどのようなものだったのでしょうか。主要な作品を中心にご紹介します。

(Public Domain /‘The poor fisherman’ byPierre Puvis de Chavannes. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

・《貧しき漁夫》1881年

本作品は1881年に制作された作品で、現在はオルセー美術館に所蔵されています。1881年のサロンに《貧しき漁夫》を出品すると画家たちの間で評判となったそうですが、なかなか展示する機会は得られなかった作品です。サロンで公開されてから6年後に国の買い上げとなり、国立美術館に展示されました。
作品に描かれているのは荒涼とした風景と船に乗る漁夫、そして彼の2人の子どもたちがその背後に描かれています。画題は聖書と関係があると考えられています。

・《希望》1872年

本作品は1872年に制作された作品で、現在はウォルターズ美術館に所蔵されています。白い服を着た女性が墓地に座る姿が描かれており、タイトルから彼女は希望を象徴しているものと考えられます。また女性の手のオリーブの枝は平和の復活を象徴しており、丘の後ろから差す光や墓場の小石の間に映える花もそうした希望を象徴しているかのように見えます。

1870年に勃発した普仏戦争はフランスに壊滅的な被害を及ぼし、パリの画家たちは作品制作などができない状況に追い込まれました。モネをはじめとした画家たちはロンドンに避難していたものの、帰国後アトリエはぼろぼろになっており、都市の人々はもちろん、画家たちも絶望を味わったのです。そんななかでシャヴァンヌは戦争や紛争に関連した作品を制作し始めます。本作に描かれている墓地の荒涼とした風景にありながら優美な表情を見せる女性には、戦争後の復興や平和を願う気持ちが込められているように思われます。

(Public Domain /‘The Shepherd’s Song’ byPierre Puvis de Chavannes. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

・《羊飼いの歌》1891年

本作品は1891年に制作された作品で、現在はメトロポリタン美術館に所蔵されています。シャヴァンヌは1884年から1886年にかけてリヨンの美術館の壁画を描いており、本作品はその一部を変えたものです。彼らのポーズは古典的な彫像を参考にしたものと考えられています。また、本作品の色合いは15世紀と16世紀のイタリアのフレスコ画を参考にしていると言われています。実際に15世紀ごろのイタリアのフレスコ画と見比べてみるのも面白いでしょう。本作に限らず彼の作品はゴーギャンなどの若い芸術家を刺激し、影響を与えています。

シャヴァンヌは1898年10月24日にパリにて73歳の生涯を閉じていますが、その作品と表現はフランスの画家にはもちろん、遠くアメリカや日本の画家たちにも衝撃や影響を与えています。4 / 495%

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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