オノレ・ドーミエ:風刺画と写実主義

(Public Domain /‘Honoré Daumier’ by Victor Laisné. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

オノレ・ドーミエは1808年フランス、マルセイユに生まれた画家です。風刺画家として政府や政治家、ブルジョワを批判したことで知られ、1832年にはルイ・フィリップの風刺画を描いたことで投獄されるなど、既存の体制に芸術で意見するスタイルを貫いた画家でした。また、絵画や彫刻、リトグラフにおいてもすぐれた作品を残しており、特に共和国政府の依頼によって制作した《共和国》からはドーミエの表現力の高さをうかがうことができます。そんなドーミエの生涯と作品とはどのようなものだったのでしょうか。

■オノレ・ドーミエとは

オノレ・ドーミエは1808年フランス、マルセイユにガラス職人の子どもとして生まれました。父ジャン=バティストは職人であったものの文学の素養のある人物で、1814年には詩人として身を立てるべく家族を置いてパリに出てしまいます。家族がバティストを追ってパリに出てきたのは1816年のことで、その生活はかなり貧しいものでした。そのためドーミエは弁護士の使い走りや書店の店員として働き、家族を支えなくてはなりませんでした。

そんななかドーミエは芸術に関心を持つようになっていきます。14歳のときにはアレクサンドル・ルノワールに師事してティッツァーノやルーベンスの技法を学び、アカデミー・シェイスにも通うなど、働きながらも少しずつ画力を高めていくようになります。また、ベリアールという職人から石版画の技術も学んでいます。当時石版画は発明されたばかりの最新技術であり、この技術を学んだことはドーミエの人生にとって大きな転機となります。

(Public Domain /‘Le Charivari, December 1, 1832–May 31, 1833’ by Honoré Daumier. Image via The Metropolitan Museum of Art)
(Public Domain /‘Harlé Père, published in La Caricature no. 136, June 5, 1833’ by Honoré Daumier. Image via The Metropolitan Museum of Art)

また当時のフランスはジャーナリズムが盛んになっており、新聞や雑誌が多数創刊されていました。しかし当時のフランスの人々の識字率はさほど高いものではなく、出版するにあたって挿絵はとても重要なものでした。それに目を付けたフランス・リヨン出身の漫画家でありジャーナリストであったシャルル・フィリポンは、挿絵に力を入れた新聞「シャリバリ」や「カリカチュール」を発刊。その挿絵を依頼されたのがドーミエでした。当時ドーミエは23歳という若さでしたが、フィリポンはドーミエの才能を見抜き、挿絵画家を依頼しています。

当時のフランスはルイ・フィリップの統治下にありましたが、貧困問題や不平等といった社会的問題がはびこっており、フィリポンはルイ・フィリップをテーマとして週刊新聞「カリカチュール」を発刊しました。ドーミエが描いたルイ・フィリップの梨頭の風刺画は大変な話題となったものの、糾弾の対象にもなり、結局1835年に「カリカチュール」は発禁処分となってしまいます。しかし「シャンバリ」はフィリポンの死後も1937年まで刊行され、フランスの人々にとって風刺はなくてはならないものになっていきました。

ドーミエというと風刺画家のイメージがどうしても先行しがちですが、彼は生涯で500枚以上の絵画、4000枚のリトグラフ、1000枚の木版画、1000枚の素描、100の彫刻を制作した多作な作家でもありました。その中にはパリ市民の日常生活はもちろん、当時の最新技術であった鉄道車両の内部、また印象派や表現主義の作品を先取りしたような表現さえありました。そうして制作活動にいそしんでいたドーミエですが、1872年頃から目の病気を患い失明してしまいます。その後1879年にはパリ郊外のヴァルモンドワで死去。70歳の生涯を閉じています。

■ドーミエの作品

オノレ・ドーミエは風刺画家としてフランスのジャーナリズムに大きな影響を与えた画家です。ルイ・フィリップの風刺画をはじめとして、モチーフのおもしろさを際立たせた表現はフランスの人々の心をつかみ、以降風刺画はなくてはならないものになっていきます。そんなドーミエの作品とはどのようなものだったのでしょうか。主要な作品を中心にご紹介します。

(Public Domain /‘Rue Transnonain, le 15 Avril, 1834, Plate 24 of l’Association mensuelle’ by Honoré Daumier. Image via The Metropolitan Museum of Art)

・《トランスノナン街、1834年4月15日》 1834年

本作品は1834年に制作された作品で、現在はメトロポリタン美術館に所蔵されています。1834年に暴動が起こってある兵士が殺されると、残りの兵士たちは1834年4月14日に報復を開始。老若男女問わず大量殺人を行いました。それに衝撃を受けたドーミエは被害者たちの哀れな姿をモチーフとして作品を制作したのです。

画面中央の男性はベッドリネンにくるまれており、その男の下では重さのためか赤ん坊が圧死しています。画面左の暗がりに倒れているのは赤ん坊の母親であると考えられます。家族が夜休んでいたさなかに行われた大量殺人の凄惨な光景をドーミエはリアルに描き切っており、本作品はフランスの人々に大きな衝撃を与えました。

こうした事件の背景にはルイ・フィリップがブルジョワの利益の保護のみを行い、労働者の環境がどんどん悪化していたという問題があります。ドーミエは本作を通してそうした社会問題に警鐘を鳴らそうとしていたのでしょう。この一年後、ルイ・フィリップは政治風刺画を違法にしています。

(Public Domain /‘The Republic’ by Honoré Daumier. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

・《共和国》 1848年

本作品は1848年に制作された作品で、現在はオルセー美術館に所蔵されています。作品に描かれているのはトリコロールの旗を握りながら、子どもたちに乳を与えるたくましい女性像で、強くたくましいフランスの姿が隠喩的に表現されています。

1848年ルイ・フィリップは王位を追われ、共和国政府が樹立。それまでのルイ・フィリップの政治からイメージの刷新をもとめられた共和国政府は、芸術家たちに共和国の象徴となるような作品を制作するように命じます。そんななかドーミエが制作したのが《共和国》でした。ドーミエは当時「シャリバリ」の風刺画家としてしか知られていませんでしたが、本作品が大変な話題となったことで、ドーミエの名前は一躍広まることになりました。

(Public Domain /‘The Third-Class Carriage’ by Honoré Daumier. Image via The Metropolitan Museum of Art)

・《三等車》 1862年-1864年

本作品は1862年から1864年に制作された作品で、現在はメトロポリタン美術館に所蔵されています。ドーミエはしばしば19世紀半ばのパリの日常生活を描いており、その中でも産業化の影響は重要な主題の一つでした。本作品は三等車に乗る労働者階級の人々を描いており、乳飲み子を抱えた母親や年老いた女、ぐっすり眠りこむ少年などを描いています。
本作品の特長は、労働者階級を描きながらも成人男性が描かれていないことです。これはその後躍進する女性の姿を示唆するものと考えられており、ドーミエの社会問題に対する意識がうかがえます。
また、ドーミエの「三等車」という作品は、ニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されている未完成のものと、オタワのカナダ国立美術館のバージョン、サンフランシスコ美術館のバージョンの三つがあります。前二つはほぼ同じ構図で、色味や描かれている人物に若干の違いがあります。サンフランシスコ版のみ、メインで描かれている人物が女性ではなく男性になっており、サイズも他二つに比べて小さいです。是非これらを比べてみてください。

■おわりに

オノレ・ドーミエは「カリカチュア」の風刺画家としてフランスのジャーナリズムに多大な影響を与えた画家です。ルイ・フィリップの統治下における社会問題を描き、そのリアルな表現は識字率が高くなかった当時のフランスの人々の心を強く打ちました。ルイ・フィリップの風刺画を描いたことで投獄されるも、生涯にわたって風刺画はもとより絵画やリトグラフ、木版画、素描、彫刻などさまざまなジャンルの作品を制作し、その後の画家たちに大きな影響を与えました。

ドーミエの作品を鑑賞していると、貧困や不平等などその当時から現代にいたるまで社会における問題はまったく変わっていないことを気づかされます。ドーミエの作品は現代社会において、よりよく生きるヒントを与えてくれるかもしれません。

参考サイト:Wikipedia オノレ・ドーミエ 2021年1月13日閲覧

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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