Nirvana: ピュア過ぎた男カート・コバーン

ニルヴァーナとは

バンド名は仏教用語の「涅槃」を意味する。カート・コバーン(ヴォーカル、ギター)、クリス・ノヴォセリック(ベース)、デイヴ・グロール(ドラム)によるアメリカの3ピース・ロック・バンド。1987年に結成され、1989年アルバム「ブリーチ」を発表。そして1991年にリリースされた「ネヴァーマインド」が大ヒットして、一躍世界中から注目を浴びるバンドとなり、彼らのサウンド・スタイルであるグランジ・ロックがロックの歴史の一時代を築いた。しかし、1994年4月5日カート・コバーンがシアトルの自宅にて銃で頭部を撃って自殺。バンドは消滅することになった。

ファースト・アルバム「ブリーチ」

1989年バンドは、シアトルのインデベンデント・レコード・レーベルであるサブ・ポップと契約を交わした。サブ・ポップは、ニルヴァーナ以外にもサウンド・ガーデンやマッドハニーなどとも契約し、1990年代前半のグランジ・ブームの立役者にもなった。そのレーベルからニルヴァーナは、同年6月にファースト・アルバム「ブリーチ」をリリース。この時点でデイヴ・グロールはまだバンドに参加しておらず、チャド・チャニングがドラムを担当していた。プロデューサーはジャック・エンディノで、600ドルという低予算で製作された。明るさや派手さのない陰鬱でヘビーなサウンドと美しいメロディーが印象的。暗くてハングリーな若者の衝動を飾り気なく吐き出したようなサウンドで、のちのニルヴァーナの原石といったイメージであったが、ヴォーカルのカート・コバーンが放つ異様なほどの存在感は、当時のインディーズ・シーンで既に注目を集めるようになっていった。

セカンド・アルバム「ネヴァーマインド」

デイヴ・グロールをドラマーに迎えたバンドは、1990年にメジャー・レーベルであるゲフィン・レコードと契約した。シカゴのインディーズ・バンドを主に手掛けていたブッチ・ヴィグ をプロデューサーに迎えてレコーディングを開始し、1991年9月に「ネヴァーマインド」がリリースされた。収録曲であるシングル「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」がMTVやFMラジオでヘビー・ローテーションとなり、アルバムのジャケットで赤ちゃんが水中で1ドル札を取ろうとして笑っている写真も大きなインパクトを与えた。
アルバムはビルボードのチャートで1位となって、シアトルのローカル・バンドは、あっという間に世界のカリスマ・ロック・バンドとなった。

グランジの台頭

「ネヴァーマインド」の登場は、当時ガンズ・アンド・ローゼズやメタリカ等ヘビーメタルやハードロックが主流だったアメリカのロックシーンを一瞬にしてグランジ・ロックの時代に転換させた。グランジ・ロックとは、シアトルが発祥で、1988年にメジャー・デビューしたサウンド・ガーデンがアンダーグラウンドの音楽シーンで注目され出したのが始まりと言われている。その後、1990年にはニルヴァーナの兄貴分とも言えるソニック・ユースが「グー」でメジャー・デビューし、「ネヴァーマインド」がリリースされた1991年にはパールジャム「テン」、サウンド・ガーデン「バッド・モーター・フィンガー」が発売され、一気にグランジ・ブームに火がついた。その後もダイナソーJr.やマッドハニーらが続き、シアトル以外の他の地域からもスマッシング・バンプキンズ、ホール、ストーン・テンプル・パイロッツといったバンドが登場してきた。
グランジの特徴は、伝統的なヘビーロックとパンクの融合とも評された絶望感の漂うような重々しいサウンドと、破れたジーンズに汚れたTシャツといったファッションだった。彼らはアメリカの80年代に蔓延していた楽観的で派手好きな雰囲気、あらゆる権威や商業主義、スター・システムを全否定してロック・ファンからの支持を得ていった。

「ネヴァーマインド」の影響

「ネヴァーマインド」成功の影響を誰よりも大きく受けたのは、バンドのメイン・メンバーであるカート・コバーンだった。アルバム制作時はこのサウンドを気に入っていたはずのカートだが、あまりに大きな成功を素直に受け入れられず、事あるごとにこのアルバムを嫌悪し、否定する発言を繰り返した。商業主義やスター・システムを否定した音楽性が、結果的にカート・コバーンを金持ちのスーパースターに押し上げてしまった事が彼を大きく混乱させた。カートはヘロインへの依存を強めるようになっていった。

サード・アルバム「イン・ユーテロ」

カート・コバーンは1992年にバンド「ホール」のヴォーカル&ギターのコートニー・ラブと結婚した。「90年代のシド&ナンシー」と呼ばれた2人はスキャンダルを繰り返し、マスコミの餌食となっていった。そして1993年9月にメジャーでは「ネヴァーマインド」に続くセカンドとなる「イン・ユーテロ」をリリースした。カートが「ネヴァーマインド」の狂騒の再来を望むはずもなく、アンダーグラウンド・シーンへの回帰、とにかく売れないアルバムをイメージして製作された。プロデューサーにはアンダーグラウンド・ロック/オルタネイティブ・ロックの代表的なエンジニアであるスティーヴ・アルビニを起用した。もちろん「ネヴァーマインド」の続編を期待していたファン達からは戸惑いの声もあったが、それを超えるスーパーバンドになっていたニルヴァーナの新作ということで皮肉にもアメリカでもイギリスでもチャートのトップにランクインしている。

カート・コバーンの死

「イン・ユーテロ」の発売後もカートはドラックに溺れ、奇行を繰り返していく。1994年3月鎮静剤の過剰摂取により入院するが、その病院を脱走。そして1994年4月5日数日間の行方不明の後、シアトルの自宅のガレージにてライフルで頭を撃ち抜き、自殺しているのが発見された。遺体の損傷はひどく、本人確認には指紋適合が必要であった。

「MTV・アンプラグド・イン・ニューヨーク」

1994年11月にカートの死後最初に発売された「MTV・アンプラグド・イン・ニューヨーク」は、アメリカやイギリスなど各国でチャート1位のヒットとなった。ライヴは1993年11月に録音された音源でオリジナル楽曲やデヴィッド・ボウイ「ザ・マン・フー・ソールド・ザ・ワールド」などのアコースティック・ライヴ・ヴァージョンが収録されていた。ローリング・ストーン誌が選ぶオールタイム・ベスト・ライヴ・アルバムで10位にランクインしている。

「ニルヴァーナ」(ベスト・アルバム)

カートの死後8年が経ってこのベスト・アルバムが発売になった。これだけ発売までに時間がかかったのは、残ったバンド・メンバーであるクリスとデイヴが、カートの妻であるコートニーと未発表音源のリリースに関して揉めに揉めたためであった。長い法廷での争いの末、カート生前最後のレコーディング曲である「ユー・ノウ・ユーアー・ライト」を収録したベスト・アルバムとなった。

残ったメンバーのその後

ベースのクリス・ノヴォセリックは、スゥィート75やアイズ・アドリフトというバンドを結成して活動したが、いずれも長くは続かなかった。デイヴ・グロールは、バンド「フー・ファイターズ」を結成。ドラマーからヴォーカルとギターのフロントマンへと変身し、楽曲も手掛けるようになった。フー・ファイターズはグラミー賞でも常連となり、ポスト・グランジ時代の代表的アメリカン・ロック・バンドとなっている。

グランジ・ロック時代の終焉

時代の寵児であったカート・コバーンの衝撃的な自死はロック界に大きなショックを与えた。そしてグランジ・ロックの厭世的で陰鬱な楽曲達はカートの死後には大衆に受け入れられない雰囲気がシーンに漂い出し、グランジ・ロックの「時代」は終わっていった。そして、人々は絶望感の中、ポスト・カート・コバーンを探していた。そこに登場したのがベックであった。彼はカート・コバーンの喪失という現実を正直に受け止めた上で、あえて乗り越えていこうというポジティブな表現を示した。そのサウンドは、ロック、ブルース、カントリーにヒップホップやR&Bの要素を入れたごちゃ混ぜ的なもので、あくまでメジャー感のないオルタネイティブでインディーズな雰囲気を醸し出していた。1996年にベックがリリースしたアルバム「オディレイ」によってアメリカのロック界はようやくカート・コバーンの幻影から抜け出すことができたのである。一方イギリスではブラーやオアシスといったバンドが登場し、ブリッド・ポップという新しいムーヴメントが生まれていった。

ビリー・アイリッシュ

2019年、17歳のティーンエイジャーの女の子であるビリー・アイリッシュのメジャー・デビューアルバムがアメリカとイギリスでNo.1ヒットとなり話題を集めた。彼女のライヴを見た元ニルヴァーナ、現フー・ファイターズのデイヴ・グロールが「彼女は1991年のニルヴァーナのようだ。彼女を見ているとロックン・ロールは全然死んじゃいない、って思う。」と語ったことが大きな注目を集めた。カート・コバーンやビリー・アイリッシュのような自らのダークネスを表現するアーティストが、快楽的で楽観的に見えるアメリカで時々登場することは大変興味深い事である。

Billie eilish公式HP

まとめ

カート・コバーンは、肥大化してビックビジネス化した80年代のロックを嫌悪してシーンに登場した。そんなカートを支持する力が彼を金持ちのスーパースターにした事は本当に皮肉だった。そんな相入れない矛盾の中でも、カートは純粋に答えを導こうとし続け、そして最終的に行き詰まってしまった。彼は「ネヴァーマインド」の次のアルバムのタイトルを「I hate myself and want to die(俺は自分が憎いだから死にたい)」にしようとしていた。彼の残した遺書にはニール・ヤングの「ヘイヘイ、マイマイ」の歌詞の引用と共に、音楽で喜びを得られなくなった事、それなのに喜んでいる振りをするのが出来ないこと、自分が繊細過ぎる人間であること、ファンへの感謝、家族への愛などがつづられていた。
彼はアメリカのロック界を生き抜くには、正直で純粋すぎたのかもしれない。
Nirvana公式HP

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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