Tears for fears: 難産のサード・アルバム「Seeds of Love」

ティアーズ・フォー・フィアーズとは

ローランド・オーザバルとカート・スミスのふたりによる、80年代のイギリス音楽を代表するロック・デュオ。シンセサイザーを駆使したエレクトリック・サウンドと、エモーショナルなヴォーカル、ブリティッシュ・ロックの伝統的なメロディ、そして内向的な歌詞が、他にないオリジナリティを持っていた。
ファースト・アルバム「ザ・ハーティング」のイギリス国内でのヒットのあと、シングル「ルール・ザ・ワールド」、「シャウト」そしてセカンド・アルバム「ソングス・フロム・ザ・ビッグ・チェアー」がイギリス国内にとどまらず、アメリカでも大ヒットし、世界的な成功を収めた。1989年に3枚目のアルバム「シーズ・オブ・ラヴ」をリリースし、全英1位、全米8位のヒットとなった。
1991年にカート・スミスが脱退し、ローランド・オーザバルが、ソロ・プロジェクトとして「ティアーズ・フォー・フィアーズ」を名乗っていたが、2003年にデュオとして再結成した。

バンド結成と命名

ローランド・オーザバルとカート・スミスは13歳の時にイギリスのバースで出会い、一緒に音楽活動を開始する。
二人は、ティアーズ・フォー・フィアーズ結成前には、グラデュエイト、ネオン、ネイキッド・アイズといったバンドで、一緒に活動していた。モッズ・ファッションのスカ・バンドだったグラデュエイトでは、「エルビス・シュド・プレイ・スカ」という楽曲で、スペインなどいくつかのヨーロッパ諸国でスマッシュ・ヒットを記録している。
そして1981年ティアーズ・フォー・フィアーズを結成。
バンド名は、心理学者アーサー・ヤノフの著書「プリズナーズ・オブ・ペイン」の章題に由来している。アーサー・ヤノフは、子供の頃に抑制されてきた心の痛みを再体験し、叫びとして吐き出すという原初療法(プライマル・スクリーム)を作り出した人物で、元ビートルズのジョン・レノンもこの治療を受け、名曲「マザー」を生み出している。

ファースト・アルバム「ザ・ハーティング」

彼らはレコード会社フォノグラムと契約し、1981年10月シングル「サファー・ザ・チルドレン」でデビュー。各ラジオ局からも好評を得て順調にオンエアーを伸ばした。
セカンド・シングル「ペイル・シェルター」を経て、サード・シングル「マッド・ワールド」とフォース・シングル「チェンジ」が、新しく加入したイアン・スタンリーによる特徴的なキーボードの効果もあり、大ヒットを果たした。
そして、それらヒットシングルを収録したファースト・アルバム「ザ・ハーディング」を1983年3月にリリース。全英チャート1位を記録し、イギリス国内でのツアーを行なっている。
しかし、アメリカでは最高位73位とまだまだこの時点ではイノベーションを起こすには至らなかった。

セカンド・アルバム「ソングス・フロム・ザ・ビッグ・チェアー」

「ザ・ハーディング」の英国ツアーからバンドの正式メンバーとして加入したイアン・スタンリー(キーボード)、マニー・エリアス(ドラム)に加えて、第5のメンバーと呼ばれたプロデューサーのクリス・ヒューズも参加し、セカンド・アルバムに向けた楽曲は作られていった。
そして、1984年12月発売のシングル「シャウト」がMTVで放映され続けたミュージック・ビデオの効果もあり、全英2位・全米1位など世界的な大ヒット曲となった。
「シャウト」というタイトルにもアーサー・ヤノフのプライマル・スクリームからの影響が見てとれる。
そして続くシングル、「ルール・ザ・ワールド」が駄目押しとなる大ヒット(全英1位・全米1位)。そのあとのシングル「ヘッド・オーヴァー・ヒールズ」も全米3位となっている。
これらを収録したアルバム「ソングス・フロム・ザ・ビッグ・チェアー」は、全英では最高位2位だったが、29週連続でトップ10位内にランクインするロングセラー作品となった。一方、全米では5週1位、全世界でも1000枚以上を売り上げ、1980年代を代表するアルバムの一枚となった。特にアメリカでは、第2次ブリティッシュ・イノベーションと呼ばれることになる。

第2次ブリティッシュ・イノベーションとは

まず(第1次)ブリティッシュ・イノベーションとは、1960年代半ばにビートルズやローリング・ストーンズ、ザ・フー、デイヴ・クラーク・ファイブ、キンクス、アニマルズ、ハーマンズ・ハーミッツといったイギリスのロックとポップ・ミュージックが、アメリカに次々と上陸し、一大旋風を巻き起こした状況を示した言葉である。
アメリカのブルースや古きロックンロールが、イギリスの若者達によって独自の解釈をされ、それが逆輸入された形となった。
1970年代後半からも、ポリスやエルヴィス・コステロ、プリテンダーズ、ダイアー・ストレイツ、スクイーズ、ゲイリー・ニューマン、スニッフ&ザ・ティアーズなどがアメリカでヒットしていた。ただ、本格的には1980年代に入ってから、ヒューマン・リーグ、デュラン・デュラン、カルチャー・クラブ、ワム!、ユーリズミックス、フィル・コリンズ、ビリー・アイドル、ロバート・パーマー、バナナラマ、ボニー・タイラー、ジョン・ウェイトなどがアメリカの音楽シーンを席巻していった。
彼らの多くは、イギリスがアメリカより先行していたMTV時代の恩恵を受けた。
ティアーズ・フォー・フィアーズもその一部ではあったものの、特にイギリスの伝統的なメロディにとても繊細な歌詞を持つ彼らの楽曲たちがあれだけアメリカ人に受け入れられたのは、過去のブリティッシュ・イノベーションでも、とても画期的な事件であったと言える。
第2次ブリティッシュ・イノベーションは、マイケル・ジャクソンやプリンス、マドンナなどがミュージック・ビデオを利用してヒット曲を量産しだした事で終焉したと言われている。

サード・アルバム「シーズ・オブ・ラヴ」

ローランドとカートは、大ヒットしたセカンド・アルバムから脱皮し、新たな方向性を模索し始め、そこでイアンとマニーはバンドを脱退する。
そして残ったローランドとカートは、試行錯誤を繰り返すも満足のいく作品を作れず、エルヴィス・コステロやマッドネスとの作品で有名だった最初のプロデューサー、クライヴ・ランガーとアラン・ウィンスタンリーの二人とのセッションは中止となって破棄され、プロデューサーも交代させる事となった。
そのアルバム制作費は100万ポンド(約1.5億円)を超えたとも噂され、本当にアルバムは完成するのかとファン達を心配させた。
最終的には新しいプロデューサー、デイヴ・バスコムにサポートをしてもらいながら、バンド初のセルフ・プロデュース作品として製作していくこととなった。
このアルバムの大きなポイントは、カンザスシティのホテルのバーで歌っていた黒人女性シンガー、オリータ・アダムスをゲスト・シンガーとして大抜擢した事だった。ただ淡々とスケジュールをこなすための、大観衆の前でのツアーに疲れていた二人にとって、ホテルのバーでの少ない観客の前で、心のこもった歌を唄っていたオリータの姿に胸を打たれ、バンドへの参加を依頼したという。

他にもフィル・コリンズら様々なゲスト・ミュージシャンと、ローランド&カートのデュオとのコラボレーションを軸に、アルバムは製作されていった。
1989年8月ブリティッシュ・イノベーションの大先輩であるザ・ビートルズへのオマージュと、クラシックやジャズの要素も含んだ大作の復活シングル「ソーイング・ザ・シーズ・オブ・ラヴ」をリリース。全英5位全米2位を記録した。
この曲のミュージック・ビデオは、1990年のMTVアワードでも複数の賞を、受賞している。
その後も、フィル・コリンズがドラマーとして参加し、オリータ・アダムスのゴスペル調の美しいヴォーカルと、ローランドとのデュエットがバンドの新しい方向性を示し話題となった「ウーマン・イン・チェインズ」、カートの繊細で美しいヴォーカルが印象的な「アドバイス・フォー・ザ・ヤング・アット・ハート」、逆にローランドのあくが強く出た「フェイマス・ラスト・ワーズ」とシングルが、リリースされている。
そして同年9月にリリースされた、アルバム「シーズ・オブ・ラヴ」も全英1位全米でも8位のセールスを残し、第2次ブリティッシュ・イノベーションが終焉した後でさえ、依然アメリカで支持されるバンドであることを示した。

「シーズ・オブ・ラヴ」以降

サード・アルバム発売後のツアー中にローランドとカートの関係が悪化し、ツアー後にカートがバンドの脱退を発表した。
その後、権利関係をめぐる争いを経て、ローランドがソロ・プロジェクトで「ティアーズ・フォー・フィアーズ」の名前を継承することとなり、1993年にアルバム「ブレイク・イット・ダウン」、1995年にアルバム「キングス・オブ・スペイン」をリリースした。
一方、カート・スミスは、ソロ名義で「コーリング・アウト」(1991年)、バンド“メイフィールド”名義で「メイフィールド」(1997年)、ソロ名義で「エアロプレーン」(1999年)とアルバムをリリースしている。また、ローランド・オーザバルは、バンド名ではなく、ソロ名義でもアルバム「トムキャット・スクリーミング・アウトサイド」を発表している(2001年)。
後にローランドとカートは、長い年月を経て和解し、再び共同作業を開始する。2003年ライヴで同じステージに立ったのち、2004年にはデュオのティアーズ・フォー・フィアーズとしては15年ぶりとなるアルバム「エヴリバディ・ラヴズ・ア・ハッピー・エンディング」をリリースし、積極的なライヴ・ツアーも行った。

まとめ

彼らのサード・アルバム「シーズ・オブ・ラヴ」は、セカンド・アルバムの大ヒット直後に製作が開始され、長い時間と、高額な費用、ヒットへのプレッシャーや大きなフラストレーションがかけられていた。それは分裂を引き起こす程、とてもセンシティブな環境であったことがわかる。
5年もの歳月をかけ、彼らが作り上げたアルバムの収録曲は、わずか8曲であった。だがそこには、彼らの愛情と執念が詰まった、最高の8曲が収められていた。
(tears for fears公式HP)

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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