ゴッホ:狂人画家の一生

(Public Domain /‘Self-Portrait’ by Vincent van Gogh. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ポスト印象派を代表する、オランダ出身の画家ゴッホ。近代美術の父とも呼ばれており、本名をフィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホという。今なお、世界中の美術館で彼の作品を見ることができる。彼の波乱に満ちた人生をもとに数々の映画作品も生まれており、後世に大きな影響を与えている。

孤独な幼少時代を過ごしたゴッホ

1853年、オランダ南部のフロート・ズンデルト村に生まれたゴッホ。
父親、祖父ともに牧師、母方の伯父は説教師という厳かな一族だ。

ゴッホの父テオドルス・ファン・ゴッホの給料はとても多いとはいえなかったが、教会が一家に家やメイド、馬や馬車を提供してくれていた。
ゴッホの母アンナ・コーネリア・カルベントスはとても信仰心が篤く、教育熱心な女性であった。
そのためか、幼少期のゴッホは真面目で思慮深い子であったという。

幼い頃のゴッホは、家庭で母親と家庭教師によって育てられ、1860年にフロート・ズンデルト村の学校に入学する。
その後1864年にゼーフェンベルゲンの寄宿学校へと移るが、ホームシックにかかったゴッホは、自宅に帰ると騒ぎたてた。
1866年、見かねた両親はゴッホをティルブルフの中学校に進学させるが、ここでも上手くいかず、学校生活はとても惨めであったといわれている。

のちにゴッホは、思春期について「厳しく冷たく不毛」と綴っている。

オランダの首都アムステルダムにあるゴッホ美術館

ゴッホはどの職に就いてもうまく馴染めなかった

ゴッホは画家として活動し始めるまで、いくつか他の職業にも就いている。しかしどの仕事においても、うまくいかなかったようだ。

中学校を中退したのちのゴッホは、1869年7月に彼の伯父であるセントの力を借りて、グーピル商会ハーグ支店で画商として働き始める。
そこで4年間を過ごしたゴッホは当時のことを、「2年間はおもしろくなかったが、最後の年はとても楽しかった」と弟テオドルスへ向けた手紙に綴っている。

当初は英語・ドイツ語・フランス語を使いこなす、優秀な若手として活躍していたが、ロンドン店、パリ店を経て、徐々にアートを商業的に見なくてはならないことへ疑問を抱き始めた。
そんな彼の仕事ぶりは悪くなる一方で、1876年、ついに解雇されてしまう。

その後、イギリスへと渡ったゴッホ。私立学校で語学を教えていたが、これも長く続かなかった。
そして、かねてから関心を寄せていた宗教に向き合おうと、ドルトレヒトにある書店で働きながらアムステルダム大学の神学部を目指すが、結局諦めてしまった。

その後は伝道師を目指して養成学校に通う。そして、資格を得られていないにもかかわらず1879年、ボリナージュにて炭鉱夫を相手に伝道師としての活動をスタートさせた。
熱心な伝道とその信仰心が認められたため、仮免許が与えられたのだが、貧しいものに自らの衣服を与えて自分は裸で寝る、思うように成果が出ないと自身を激しく杖で殴る(本人は自戒のつもりであった)など、行き過ぎた行動に目をつけられ、伝道師協会から免許をはく奪されてしまうのであった。

それから各地を転々とした後、1880年頃から弟テオの提案と支援によって、ゴッホの画家人生がようやく始まるのである。

ゴーギャンが描いたゴッホ(Public Domain /‘Vincent van Gogh painting sunflowers’ by Paul Gauguin. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

狂人と呼ばれるきっかけとなった「耳切り事件」

ゴッホの狂人ぶりについて語るのであれば、「耳切り事件」は外せない。
1888年10月~12月の間、画家ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャンとともに、フランス南部のアルルで共同生活していた頃の話だ。

ともに絵を描いていた二人だが、互いの美意識には相違があり、どちらも折れることのない口論を繰り返す日々だった。
そんなある日のこと、ゴッホの書いた自画像の耳を見るなりからかいはじめたゴーギャン。それに激昂したゴッホは自分の左耳を切り落としたうえに、それを二人のお気に入りの娼婦であるラシェルへの贈り物にするという衝撃的な行動に出たのである。

耳切りの原因については様々な説・憶測があり、上記のゴーギャンとの話も一説である。
仕送りをしてもらっていた弟テオの結婚の話を受け、もしかしたら自分は見捨てられてしまうのではないかと、強い恐怖や不安、孤独に苛まれていたことが重なり、そのような常軌を逸した行動に出たのではないかという考えもある。

ゴッホ自身には当時の記憶はなく、真相は謎に包まれたままである。

(Public Domain /‘The Starry Night’ by Van Gogh. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

謎多きゴッホの自殺

ゴッホの享年は37歳、あまりにも早すぎる死であった。
直接的な死因は、左胸に銃弾を受けて出血したことによる失血死だが、その真因は諸説囁かれている。

それは、ゴッホが精神病院を退院してから2ヶ月ほどたったある日のことである。
銃創を負って宿泊先に戻った彼を見て、その場に居合わせた医師はもう手の施しようがない、と安静にさせることにした。
医師から連絡を受けて駆け付けた弟テオに対し、ゴッホは「このまま死んでいきたい。」と伝え、日をまたぐ頃に天国へと旅立つ。
この時の彼の言葉を受け、近代美術の父フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホの死は、自殺として処理される運びとなったのだ。

ただ、ハッキリとした経緯は明らかになっておらず、親しくしていた少年に撃たれたのではないかなどと他殺説も出ている。

どちらにせよ、生前に脚光を浴びることなく、その生涯に幕を閉じることになってしまったことは残念でならない。

(Public Domain /‘Die Brücke von Langlois in Arles mit Wäscherinnen’ by Van Gogh. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

10年程度で残した作品は2,100点以上
37年という短い人生の中で、2,100点以上の作品を残したゴッホだが、彼が画家として活動していたのは、27歳からのわずか10年程の期間だというのは驚きであろう。

ゴッホが残した作品のうち約860点は油彩画であり、その多くは彼が37歳で自殺する直前の約2年間で制作されたものだ。

表現主義を主張するかのような強烈なブラシストロークと大胆な色調で描かれる静物画、風景画、セルフポートレイト、ポートレイトが特徴のゴッホ作品。

  • ひまわり
  • 黄色い家
  • アルルの跳ね橋
  • 星月夜 糸杉と村
  • 自画像
  • 夜のカフェテラス
  • ジャガイモを食べる人々

など、今では名作と呼ばれるものも多い彼の作品だが、生前にはほとんど売れることはなかった。

(Public Domain /‘Still Life: Vase with Twelve Sunflowers’ by Vincent Willem van Gogh. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

残された数々の格言

幾多の名作を生み出した画家ゴッホだが、数々の格言を残したことでも知られている。

I put my heart and my soul into my work, and have lost my mind in the process.
「私は自分の作品に心と魂を込める。そして制作過程では我を失う。」

ゴッホ美術館:テオへの手紙(1880年7月)より

Your life would be very empty if you had nothing to regret.
「何も後悔することがなければ、人生はとても空虚なものになるだろう。」

ゴッホ美術館:テオへの手紙(1884年10月)より

The more I think about it, the more I realize there is nothing more artistic than to love others.
「考えれば考えるほど、人を愛すること以上に芸術的なものはないということに気づく。」

ゴッホ美術館:テオへの手紙(1885年7月)より

Great things are not done by impulse, but by a series of small things brought together.
「偉業は一時的な衝動でなされるものではなく、小さなことの積み重ねによって成し遂げられるのだ。」

ゴッホ美術館:テオへの手紙(1882年10月)より

まとめ

名を知らぬ者はいないほど有名なゴッホだが、彼の壮絶な人生は知らなかった人も多いのではないだろうか。
これからも、彼の残した作品とともに、画家フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホの物語が語り継がれていくことを強く願う。

引用・参考:Wikipedia Vincent van Gogh

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

関連記事一覧