マリオ・ジャコメッリ:ジャコメッリとホスピス

マリオ・ジャコメッリはイタリアの写真家である。彼の写真を分類するのは難しく、撮影手法はドキュメンタリーと言えるが、プリントでは極端なハイコントラストに加え、覆い焼きや多重焼きつけなどの技巧が凝らされている。また、写真が表現するものもドキュメンタリーの枠からははみ出る。
生涯アマチュアの立場を貫いたにもかかわらず、ジャコメッリの写真は世界でも類を見ないほど高い芸術性を誇り、それを見る多くの者たちに哲学や思想の発見をさせる。
モノクロームな作品群には、単なるリアリズムを超えた表現と、現実と幻影の際にある被写体の一瞬が異様に結晶している。その表現方法は現在においても唯一無二のものだ。

ジャコメッリは13歳から印刷技師として働き始める。写真を撮り始めたのは25歳ごろからで、2000年に75歳でその生涯を終えるまで、ライフワークとして写真を撮り続けた。美しく禍々しい「白」と「黒」がお互いを侵略し合うような写真で、詩性のある強いテーマを持ったシークエンスをつくり上げた。

セニガッリアの風景

貧困の中で育った幼少期

ジャコメッリ自身が最も愛したシリーズであり、彼の代表作のひとつであるホスピスで撮影された作品群に焦点をあてて紹介したい。

ジャコメッリはつつましい家庭で幼少期を過ごし、9歳の頃に父親を亡くしている。その死は彼の人生観に大きな変化を及ぼした。壮年のジャコメッリ本人の弁によると、彼の人生における重要な要素は二つあり、ひとつは父親の死、そしてもうひとつが貧しい家庭環境であるという。それが豊かな創造性を産んだと。
父親が死んだその頃は、3人いるきょうだいのうち、妹が口減らしで親しい家族に預けられていたほど、一家は困窮していた。母リベラはセニガッリアのホスピスで洗濯婦の職を見つけて働き始め、幼いマリオは昼食目当てで母とホスピスに出入りするようになる。その後約30年の時を経て、そこで彼の代表作が生まれることになる。

イメージ

ホスピスの老女との出会い

ジャコメッリは多感な少年時代を長く過ごしたホスピスで、導かれるようにしてある奇妙な出会いをし、その出会いに人生を変えられている。

第二次世界大戦がはじまると自身も入隊を余儀なくされ、勤めていた印刷所も爆撃の被害に遭うなどした。やっと終戦を迎えても元の社会・生活に戻るのはなかなか難しく、人々は日々を一生懸命に生きていた。
そんな時代の中で、ジャコメッリは自身の印刷所を立ち上げようと奔走していた。25歳ごろのことだ。資金集めに駆けずり回るも、周囲も同じように苦しい状況にあるため、援助は頼めなかった。

ある朝、ジャコメッリは母親が働くホスピスを久しぶりに訪れる。そこに暮らす老婦人に呼び出されたのだ。見知らぬ老女だった。
彼女はジャコメッリに、抱いていた夢が永久に叶えられないことや、彼女にとっての戦争の話を語って聞かせた。
彼女は様々なことに諦めを抱いてそこで死を待っていたが、まわりの人間は彼女の死によって得られる金を待っているようだった。確かに老女は多額の資産を持っていたが、すでに死と生の境を見ることができる状態にあった彼女にとって、金は価値を持たなかった。
それから老女はさしたる理由もなく、印刷所を開くに充分な金をジャコメッリに与えた。そしてジャコメッリは念願の自分の城(共同経営ではあったが)、マルキジャーナ印刷所を手に入れたのだった。

ジャコメッリと老女との出会いは、運命を信じない者にもそれを感じさせる。
強いコントラストによって生命を吹き込まれる彼の作品。それに不可欠な、挑戦的で冒険的な焼き込みを自由自在に試すことができたのは、彼女のおかげで開くことができたこの印刷所によるところが大きい。

死にゆく人々から見た世界

その後ジャコメッリがもう一度ホスピスへと立ち戻るのは、老女との出会いから5年ほどが経ち、娘のリタが生まれた年のことだ。ジャコメッリは30歳で、母親が夫を失った歳になっていた。

1年目は老人たちと親交をとるために通い、2年目にやっと撮影を始める。そこで被写体になっているのは、右目で現を見て左目で黄泉を見ている、死の待合室に腰掛ける老人たちだ。
ホスピスで撮られた写真群が表現するものは、ジャコメッリの言葉を借りると「死に依存した生、生に依存した死」である。

初の個展と作品への無理解

ジャコメッリの老人たちへの視点が冷徹であり、侮辱にあたるという見方にジャコメッリは苦しんだ。
1956年に彼の初の個展、作品群「ホスピスの生活」がミラノのナヴィッリョ・ギャラリーに展示された時、作品が目指す表現に深い理解を示す者が現れる一方、それらにプライバシーの侵害をみてとった者もいた。

確かにカメラを構える者には、観察者の特権意識がはびこる。観察する目をこちら側から対象に向けていると考える時、審判の権利が常にこちら側にあるという危険な勘違いをしてしまいやすい。
しかし実のところ、観察者は観察対象からもれなく観察されているし、ジャッジされているし、違うのはただそれが写真には残っていないというだけなのだが、カメラの魔力に人はそれを忘れてしまいそうになる。

イメージ

写真に写るはジャコメッリ自身

向けられたレンズの先に無配慮な目を感じれば、怒りを覚えるのは当然だ。しかし、ジャコメッリがやろうとしたことは、被写体を題材にすると同じように自分自身をも題材にすることだった。写真に写るものを匿名の概念として神性を与えようとする試みである。
ジャコメッリは少なくとも観察者ではなかった。彼はホスピスに自分を探していたのであっただろうから、「自分は見られない」という安全地帯に意識を置いてはいなかっただろう。彼はそこに自分を投影していたし、撮られていたのは彼自身でもあった。
作品群を一目見れば、彼が写真に写る老人と自分に差がないということを理解していたのがわかる。

確かにジャコメッリは死の間際にいる老婆を至近距離で、しかもストロボを焚いて撮影したことさえあった。それは本人(意識があったなら)や家族にとっては、今際という守られるべき瞬間を汚す行為であったかもしれない。ところが彼はそれをためらわなかった。そしてその理由こそが、彼の作品群が持つ意図だった。彼は死にゆく老婆の輪郭、空間に溶けゆくエッジを立ちあがらせたかったのである。
そしてそのようにして表現されたものは、私たちに、私たちが死にゆく者であることを受け入れさせる。

ウルビーノの風景

ホスピスで確立された写真表現

1954年から68年に撮られた写真から「やがて死が訪れてお前の目を奪うだろう」のストーリーが構築され、セニガッリアのホスピスの作品は完結する。 
しかし1968年、ジャコメッリ43歳の頃、9歳の頃から親しんでいたホスピスを悪い噂が原因で追放される。先に述べたように、彼が写真で何を表現しているのか、写真のその先を見ない人々には、死に際の者を無遠慮に撮っているだけと捉えられてしまったのだ。ジャコメッリはそういった人々からの無理解と、伝わることのない自身の芸術に悩み苦しんだ。
しかしその後、1981年〜1983年にウルビーノにあるホスピスでシリーズを撮っている。故郷の通いなれたホスピスでなくとも、この施設を撮り続けたことから、彼にとってホスピスという場所は撮るべきテーマだったことがわかるだろう。
13年の長きに渡り、何度でもその場所に立ち戻ってジャコメッリは撮り続けた。それらは物語でもあり、接触し重複しあうイメージの連なりでもある。

ジャコメッリ本人は初期段階の作品を気に入っていない。つまりはこのホスピスの撮影をしていく中で、彼独特の写真表現が確立していったと考えていいだろう。

スカンノの風景

傷を待ちわびてある虚無

彼の代表作は他に、黒い伝統衣装をまとった人々が行き交う、閉ざされたローマの村で撮られた「スカンノ」、若い神学生たちを追い、いずれ神に仕え俗世と決別していくはずの青年たちの姿を写した「私にはこの顔を撫でてくれる手がない」や、「ルルド」、「男、女、愛」、「新しい移民たちの歌」、「私は誰でもない!」などがある。作品数としてみると決して多産ではないが、撮られた写真の枚数は膨大だ。
ジャコメッリの写真を見たことのない方にはまず、「やがて死が訪れてお前の目を奪うだろう」のシリーズを見ていただくといいのではないかと思う。

マリオ・ジャコメッリは数々の至言を残しているが、その中に私の心を強烈に打ち続けるものがある。

白は虚無、黒は傷跡

Mario Giacomelli 黒と白の往還の果てに 出版社:青幻舎 2009初版

であると。
ホスピスの写真群に限らず、彼のつくり出したシークエンスで傷を持つ虚無はついに永遠になる。

亡くなってから15年以上を経た現在もなお、大きな影響を私たちに与え続ける彼の作品は、あらゆる境界の意味をもう一度問わせ、それを限りなく曖昧にする力を持っている。

参考文献:
「MARIO GIACOMELLI 黒と白の往還の果てに」(青幻舎)
「私とマリオ・ジャコメッリ―「生」と「死」のあわいを見つめて」(辺見庸 日本放送出版協会)

WEBサイト:
MARIO GIACOMELLI OFFICIAL WEB SITE
Archivio Mario Giacomelli Archivio ufficiale Mario Giacomelli
Mario Giacomelli (Facebook)

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

関連記事一覧