マイケル・ジョーダン:背番号23の伝説

マイケル・ジョーダンは1963年2月17日生まれ、アメリカのバスケットボールプレイヤー。NBAのシカゴ・ブルズとワシントン・ウィザーズで活躍し、ポジションはSGで「バスケットボールの神様」と呼ばれる伝説的プレイヤー。オリンピックアメリカ代表選手で、2度の金メダルを獲得。得点王10回、シーズンMVP5回、NBAファイナルMVP6回を受賞し、平均得点30.12点はNBA歴代1位。

最強の背番号

マイケル・ジョーダンの背番号はシカゴ・ブルズ入団当時から23です。彼がこの番号を選んだのには理由があります。当時、高校生だったジョーダンは、すでにバスケットボールプレイヤーとして活動していた兄のラリー・ジョーダンとプレイを楽しんでいました。しかし年齢の差や経験の差からなかなか兄には勝つ事ができません。

兄のラリーも学生時代はバスケットボールの選手で、ジョーダンにとっては目標となる存在でした。ジョーダンは「兄にもし勝つことができるなら、世界最強のプレイヤーになれる」と少年時代に思っていたそうです。そんなジョーダンは兄の半分くらいを超えたいという考えから、兄が当時つけていた背番号45の半分の1だけ超える数字、23を選んだのです。

マイケル・ジョーダンの飛躍的な活躍から、今や23番は全てのバスケットボール選手の憧れの番号となっています。

1本のシュートが人生を変える

マイケル・ジョーダンが大学1年の1982年に最初の伝説が生まれます。ジョーダンの所属していたノースカロライナ大学は、全米大学No.1を決めるNCAAというトーナメントで決勝まで進みます。この決勝戦で1点を追う展開となり、残り17秒でパスを受けたジョーダンは逆転を信じ、ジャンプシュートを放ちます。映像は今でも見ることが出来ますが、パスを受けた瞬間にシュートを放っています。

バスケットボールをしたことのある人であればこのシュートがいかに優れたものであるかわかるでしょう。大学No.1を決める試合の1点を追う展開で、瞬時も迷わずシュートを打つ事ができたのは、彼しかいなかったでしょう。このシュートが決まり、ノースカロライナ大学が優勝。そのジョーダンのシュートは「THE SHOT」と呼ばれ、背番号23とともにジョーダンの名は全米で知られるようになりました。

プロ入団後

1984年シカゴ・ブルズに背番号23で入団したジョーダンは得点を量産し、NBAでも注目を集めるプレイヤーになります。NBA三連覇「スリーピート」を達成し彼は黄金期を代表する選手となりました。この「スリーピート」という言葉もこの時に生まれたものでした。

彼のプレーは観客の目を大いに惹きつけ、ボストン・セルティックスのラリー・バードは63点の得点をあげたジョーダンを見て、「今夜は、神様が試合に来てマイケル・ジョーダンという名前で遊んでいったようだ」と話しています。まさに、この瞬間にジョーダンは神様としての伝説が始まったのです。

その後、NIKEと契約を交わし、NIKE AIR JORDANのシリーズ商品は爆発的にヒットしました。当時は、バスケットボールシューズは白という決まりがあり、NIKEが提供する赤と黒をメインカラーにデザインされた「AIR JORDAN1」はリーグの違反とされました。しかしNIKEがその違約金を払い続け、その禁止されたことを逆手にとってCMをするなど新しいバスケットボールの形を打ち出していきました。

NIKEの契約する条件を全てクリアしていくジョーダンの活躍により、NIKEのブランドとしての名前も跳ね上がっていきました。ジョーダンは当時のバスケットボールでは考えられなかったフェイドアウェイシュートや、空中でのダブルクラッチなどの信じられないプレーを連発します。また、それまでショートパンツであったユニフォームをハーフパンツにするなど、彼は注目を集め続けました。

悲劇からの復帰

目覚ましい活躍をしてきたジョーダンでしたが、1993年に突然引退を発表し「野球選手へ転向する」としました。その決断の背景には銃殺された父の存在があったと話しています。ジョーダンは若手選手に交じり野球選手となり、二つのチームでプレイをします。

しかし彼の気持ちはやがてバスケットボールへ戻ります。

引退から約18ヶ月後、ジョーダンはNBAへ復帰します。背番号は45。シカゴ・ブルズでこの背番号をつけた彼の復帰戦は、バスケットボールから離れていたことを感じさせないものでした。ところがある日のゲームでジョーダンは隙をつかれ、そのシュートが相手の勝利を決定してしまいます。その時の相手選手はジョーダンのことを「23番をつけていた頃の彼とは、まるで別人だった」と話しました。

それに悔しさを感じたジョーダンはトレーニングに励み、かつての23番を背に試合に出場。神様の背番号をつけた彼の活躍はまさに神がかったものでした。最高得点をたたき出し、やがてシカゴ・ブルズはNBAチャンピオンに返り咲きます。2度目のスリーピートを達成するのです。

新たなチームと引退

1999年にジョーダンは再度の引退を表明し、まだ若いチームであったワシントン・ウィザーズに出資しオーナーとなります。彼は多くの時間をチームと過ごし、あらゆるサポートをする中で「もうNBAに戻ることはない」と話していました。

しかし彼の中に、また選手としてプレーをしたいという気持ちが込み上がってきます。そして2001年、ワシントン・ウィザーズで選手として再度の復帰を行います。この復帰戦は悲惨なテロ“911”で、犠牲となってしまった家族と選手たちへの支援が目的でした。このチームでもジョーダンは背番号23を背負い活躍します。

2003年NBAオールスター最終ゲームでジョーダンは、長きに渡り最高記録を守り続けていた伝統的プレーヤー、カリーム・アブドゥル=ジャバーのレコードを抜くこととなります。
当時、彼は40歳で高得点をたたき出し、瞬く間に活躍が期待される存在となります。全ての試合は完売、ワシントン・ウィザーズは最も注目されるチームとなっていました。

いくつかのプレーを経て、彼にとって最後のNBA出場を決意。それは2003年5月16日にフィラデルフィアで行われました。この試合でワシントン・ウィザーズは思うような点数がえられず葛藤する中、4試合目でジョーダンはベンチでチームを見守ることにします。すると試合終盤、観客から「マイク!マイク!」と一斉にコールが始まります。

声援に答え、試合残り時間1:44というところでジョーダンはコートへ。そして相手チームの選手は自分のボールをジョーダンに渡しました。そのボールでジョーダンは二回の華麗なフリースローを披露。歓声とともに、それが彼のキャリアで最後のシュートとなりました。

現在、背番号23はシカゴ・ブルズ、ノースカロライナ大学で永久欠番となっています。また、マイアミ・ヒートにおいても背番号23は永久欠番。当時のマイアミ・ヒートのヘッドコーチであったパット・ライリーが世界を魅了し続けたマイケルジョーダンと23番に敬意を表したもので、所属していないプレイヤーの永久欠番という極めて異例な処置がとられています。

芯の強さ

マイケルジョーダンの所属していたシカゴ・ブルズで監督を務めたフィル・ジャクソンが、ジョーダンについて語った事があります。「彼はいつも競走馬のように訓練していた。困難にぶつかるほど熱心になっていった」。またデトロイト・ピストンズに所属していたプレイヤー、グラント・ヒルは「マイケルは全てのプレーで達人だ。辞書にバスケットの項目があるのならマイケルの写真を載せるべきだろう。」そんな周囲の言葉からもジョーダンの圧倒的な実力や魅力が伝わってくるようです。

ジョーダン本人が残した名言も数多くあります。

「試合に負けたことは一度もない。ただ時間がたりなくなっただけだ。」
「何かを始めるのは怖いことではない。怖いのは何も始めないことだ。」
「僕のヒーローは両親だ。それ以外には僕のヒーローはいない。」

こういった言葉からもジョーダンの性格を垣間見ることができます。

かつて記者からの質問で「あなたはバスケットボールの歴史を塗り替えました。あなたの名前は後世に残ることになるでしょう。マイケル、あなたはどのような選手であったと記憶されたいと望みますか?」と聞かれた際、ジョーダンは少し微笑んだ後こう答えました。

「バスケットボールを、心から愛した奴がいた。ただ、それだけでいい。」

出典:
Michael_Jordan NBA_career_statistics (ウィキペディア)
RadioTimes
ESPN

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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