ジャン=ミシェル・バスキア:孤高のグラフィティ・アーティスト

右:バスキア

ジャン=ミシェル・バスキアは、ニューヨーク・ブルックリン生まれのグラフィティ(落書き)・アーティスト。子供のお絵かきのような、記号と抽象的表現を組み合わせたユニークな技法が、アンディ・ウォーホールら最先端のアーティストの注目を浴びた。1980年代ニューヨーク・アートシーンの中心的人物として活躍するも、1988年にヘロインの過剰摂取により死去した。享年27歳。その短くも衝撃的な活動を描いた伝記映画『バスキア』(1996年)、ドキュメンタリー映画『バスキアのすべて』(2010年)などで今も記憶される、グラフィティ・アーティストの代表的人物だ。

バスキアの生い立ち

グラフィティ・アートとは、「落書き」の芸術のこと。1960年代のアメリカ・ニューヨークに生まれ、世界中に広がったアートの一ジャンルです。地下鉄やトンネル、ビルの壁などに、スプレーで殴り書きされたイラストやメッセージが、時代を経るにつれて洗練され、1980年代に「芸術」とみなされるようになりました。そうした「グラフィティ・アート・ムーブメント」の中心にいたのが、ジャン=ミシェル・バスキアです。

ジャン=ミシェル・バスキアは、1960年、ブルックリンの中流家庭の家に生まれました。父親はハイチ人、母親はプエルトリコ人でした。バスキアの母はファッションデザインや絵画に造詣が深く、バスキアと一緒によく絵を描いていました。バスキアは4歳のころから、父親が勤務先の会計事務所から持ち帰った紙に、テレビアニメを題材としたお絵かきをしていたそうです。

ブルックリン美術館

母親は幼いバスキアを連れて、ブルックリン美術館、ニューヨーク現代美術館、メトロポリタン美術館などによくでかけていました。バスキアによると、美術についての基礎的な素養は、すべて母親から受け継いだとのことです。

バスキアはブルックリンの聖アン学校というカトリックの小学校に入学すると、早くもその才能を開花させます。友人と共著で絵本を書き、スペイン語、フランス語の本も読みこなし、陸上選手としても活躍しました。

ワシントンスクエア公園

1970年に両親が離婚。バスキアは2人の妹とともに父親と暮すことになります。71年には父親の転居に伴い、聖アン学校を退学。公立学校に移ります。その後バスキアは、5回も転校を繰り返すことになりました。
そして、この頃からバスキアの「放浪癖」が始まります。父親いわく、バスキアは「服従が嫌いなんだ。そのせいでたくさん問題を起こした」そうです。75年には家を逃げ出して地元のラジオ局に隠れていたところを父親に連れ戻され、76年にはグリニッジ・ビレッジのワシントンスクエア公園で2週間暮らしていたと言います。
迎えに来た父親に、彼はこう言ったそうです。「パパ、僕はいつかとてもとても有名になるよ」

転校を繰り返した彼が最後に行き着いたのが「City As School」というオルタナティブ・スクールでした。「City As School」は、働いた経験なども卒業単位として認定できる高校でした。

グラフィティ・アーティストとしてデビュー

高校の友人アル・ディアスらと「SAMO©」という架空のキャラクターを名乗り、ソーホーやイースト・ビレッジの壁や地下鉄の車両などに、落書きを始めたのがこの高校時代です。

「SAMO©」はsame old shit=「いつもと同じ」の略称だと言われています。発音は、「セームオー」です。バスキアの証言によると、SAMO©の名前は、アル・ディアスとマリファナを吸いながら「いつもと同じやつ(マリファナ)」を吸ってるな」という会話を交わしたことに由来するといいます。

バスキアはこのSAMO©を名乗って、架空の宗教やコミック本を作り出し、ステッカーやパンフレットをばらまきました。最初はマジックで、次にスプレーペイントで、ロウワー・マンハッタンの壁という壁に謎めいた詩的なメッセージを書き記しました。

・SAMO© AS A NEO ART FORM
(SAMO©は新しいアートの形態だ)

・SAMO© AS AN END 2 THE NEON FANTASY CALLED ‘LIFE’
(ネオンに照らされた人生という名のファンタジーの終焉、SAMO©)

・SAMO© FOR THE SO CALLED AVANT GARDE
(いわゆる『前衛』のためのSAMO©)

・SAMO© AS AN END 2 NINE-2-FIVE NONSENSE… WASTIN’ YOUR LIFE 2 MAKE ENDS MEET… TO GO HOME AT NIGHT TO YOUR COLOR T.V.
(9時から5時までの無意味な生活、帳尻を合わせるために人生を無駄にし、自宅でカラーテレビを見るだけ。それを終わらせるためのSAMO©)

・SAMO© AS A CONGLOMERATE OF DORMANT-GENIOUS
(隠れた天才のコングロマリット:SAMO©)

・SAMO© AS AN END TO MASS MINDLESSNESS
(大衆の無知を終わらせるためのSAMO©)

AL DIAZ

1978年、年上のアル・ディアスが高校を卒業することになりました。ディアスの卒業式で、バスキアはとんでもない事件を引き起こします。
ひげそりクリームを箱いっぱいに詰め込み、式辞を述べている校長の頭めがけて、その箱をひっくり返したのです。

ニューヨーク・アートシーンに飛び込む

高校をドロップアウトしたバスキアは、もう2度と学校へは戻りませんでした。父親はそんなバスキアに資金を提供し、アーティストとしての道を後押ししました。「あいつはスターになりたかったんだ」と父親は述懐します。

バスキアは小銭稼ぎのため、手製のポストカードやTシャツを売る一方、同時代の様々なアーティストの家を渡り歩き、イベントやパーティーに顔を出すようになります。そんな時期にレストランで知り合ったのが、ポップ・アートの巨匠、アンディ・ウォーホールです。

またダウンタウンのクラブやバーでは、ブロンディー、マドンナといった著名人と知り合い、ハーレムやサウス・ブロンクスでは、グラフィティ・アートのほか、ラップ、ブレイクダンスなど、当時最先端のヒップホップカルチャーに触れます。

しかし彼は滞在先でもトラブルを起こします。部屋の中のあらゆるものに絵を描いてしまうので家主に嫌がられるのです。「彼は手に触れるもの何にでも絵を描いてしまうんだ。冷蔵庫、白衣、ダンボール箱、ドアとか」と当時の友人は話しています。

同時にバスキアは、アル・ディアスとともに、ますますグラフィティ・アートにのめり込みます。おびただしい数の落書きが、「ヴィレッジ・ボイス」紙の記者の目に止まったのは、1978年12月のことでした。
同紙の記事が、SAMO©の「犯人」として2人を世界に紹介した、はじめてのものとなりました。

タイムズスクエア

アーティストとしてデビュー

驚いたことに、「ヴィレッジ・ボイス」の記事が出て間もなく、バスキアはディアスと決別してしまいます。SoHo地区の壁という壁に、「SAMO©は死んだ」という落書きが現れました。「バスキアにとってSAMO©は道具で、落書きは宣伝手段だったんだ。バスキアは突然それを乗っ取ってしまった」(ディアス)。

この後の活躍ぶりは、まるでジェットコースターのようです。ケーブルテレビのプロデューサーと知り合い、テレビに頻繁に出演するようになる一方、大物アーティストで映画製作者でもあるディエゴ・コステスを通じて著名な大手美術ディーラーとつながり、作品を評価してもらえるようになります。

大きな転機となったのが、1980年6月にタイムズ・スクエアの地域の空きビルを会場に開いた、初めての合同展覧会「タイムズ・スクエア・ショー」です。「タイムズ・スクエア・ショー」で彼は、SAMO©の巨大なメッセージを展示。これが批評家たちの注目を集めました。

同時期、彼は「ニューヨーク・ビート」という映画に出演します。この映画は、ダウンタウンのアートシーンを題材としたものでしたが、公開はされませんでした。しかし映画出演のギャラがあったことと、絵画やメッセージのドローイングを売ることで(価格は100ドルだったそう)、彼は画材を買うことができました。
この頃、歌手でアーティストのスザンヌ・マルークと出会い、二人は一緒に住むようになりました。

1981年のバスキアは、毎月のように合同展に招かれます。5月にはイタリアのモデナで初めての個展を開き、帰国後知り合った美術ディーラーの厚意で、初めてのスタジオを持つことになります。
82年、米国内で初めて開いた個展が大成功を収めます。ストリート、新聞、テレビで見聞きする映像と、ハイチ文化に由来するスピリチュアリズムと織り交ぜ、新しい表現に昇華する技法が絶賛を浴びました。

この後彼は、ロサンゼルス、ドイツ、スイス、ロッテルダム、ニューヨークを舞台に、精力的に作品を発表していきます。最初の作品集「Anatomy(解剖学)」を発表したのもこの頃です。

成功とウォーホール

1984年頃には、バスキアの地位は揺るぎないものになってきていました。この頃のバスキアを支えたのがアンディ・ウォーホールです。
アンディ・ウォーホールはバスキアに住居を貸し出し、2人はお互いのスタジを自由に行き来しあい、作品を共同制作したり、哲学的な会話を交したりしました。
年長のウォーホールにとってバスキアは、最先端の若いアートシーンへの窓口であり、バスキアにとってウォーホールはメンターのような存在でした。

寄生虫たちと差別

85年、バスキアはニューヨーク・タイムズ・マガジンの表紙を飾ります。作品の評価は高まり、バスキアの懐には、巨額のお金が転がり込むことになりました。
それとともに彼を悩ませたのが、「寄生虫」です。友人や友人のふりをした人々が、彼のスタジオがオープンであるのをいいことに、勝手に作品を持ち出して売ってしまうことが増えました。

また、黒人に対する差別がまだまだ根強い時代にあって、バスキアの成功がさまざまな軋轢を生んだこともありました。
ある時、バスキアがマンハッタンの高級レストランでスザンヌ・マルークと食事をしていると、近くのテーブルに座ったスーツ姿の男たちが、こんなふうに話しかけてきたことがありました。

「なんでこんな高級レストランに来られるんだ。あんたは女衒か?この女は売春婦か?」
バスキアはウェイターを呼び、彼らの勘定を払ってやり、帰り際に男たちの1人がお礼を言いに来ると現金500ドルを渡し、こういったそうです。「ごめん、チップを忘れていた」
(出典:VOGUE Jean-Michel Basquiat

アンディ・ウォーホールの死

1987年、バスキアにとって衝撃的なことが起きました。友人であり指導者でもあった、アンディ・ウォーホールが死んだのです。
晩年には関係が悪化していたとはいえ、バスキアが苦難に陥ったとき、いつも助けてくれたのがウォーホールでした。

バスキアの死

バスキアの友人や知人にとって、多忙な日々を送るバスキアに関して最も心配されたのがバスキアのドラッグ中毒です。バスキアは中毒者のための治療を受けようとはしませんでした。
そして1988年、長年の心配が現実となってしまいました。8月12日、バスキアが自宅ロフトで死んでいるのが発見されたのです。死因は複数のドラッグによる急性中毒、というものでした。ヘロインの過剰摂取が直接の原因ではないかと言われています。

8月17日、家族や親しい友人による告別式が、メトロポリタン美術館に近い教会で行われました。出席者の中には、キース・ヘリングもいました。バスキアの亡骸は、ブルックリンの墓地に葬られました。
その後セント・ピーターズ教会で行われた追悼式には、大勢の弔問客が訪れました。スザンヌ・マルークが、AR Penck の詩を引用し、人々に強い印象を残しました。「バスキアは炎のように生きました。本当に明るく燃えました。そして火は消えたのです。でも、残り火はまだ温もっています」
参考:Jean-Michel Basquiat

『無題(頭蓋骨)』

バスキアの残したもの

バスキアがプロのアーティストとして活躍したのは、1980年から亡くなる1989年まで、わずか9年ほどに過ぎません。しかしその短い期間に、バスキアは多くの人々に強い印象を残し、今に至るまでインスピレーションの源泉であり続けています。
1996年には、アートシーンにおけるバスキアの衝撃的なデビューを描いた『バスキア』という伝記映画が作られました。また2010年には、『バスキアのすべて』というドキュメンタリー映画が作られました。
当初、タダ同然で取引されていた作品は、今や数億円〜数十億円の値で取引されています。2016年と2017年には、ファッション通販サイトZOZOTOWN社長の前澤友作氏が、バスキア作品を巨額で落札したことが話題となりました。2016年の落札額は62億円、17年は123億円でした。16年の落札のときは、同じく現代美術に造形が深いレオナルド・ディカプリオの自宅に招かれたそうです。

自由であることの価値を訴え、差別、偏見、固定観念と戦ったバスキアの作品の価値は、死後、時間を経るにつれますます輝いているといっていいでしょう。

参考文献:
graphic art | Britannica
The Estate of Jean-Michel Basquiat

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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