ポール・ゴーギャン:ゴッホやピカソに大きな影響を与えた画家

(Public Domain /‘Self-Portrait’ by Paul Gauguin. Image viaWikimedia commons)

ポール・ゴーギャン(1848-1903)は、フランスのパリにて誕生した画家です。ゴーギャンは10代で航海士となり1868年にフランス海軍に入隊、フランス帝国とプロイセン王国の間で起こった普仏戦争に従軍しました。1873年に結婚し、5人の子どもに恵まれてから余暇として独学で絵を描き始めました。

余暇から専業へ

ゴーギャンは10代の頃は航海士として南米やインドを往訪していました。その後は、海軍に入隊し、証券仲介人などの仕事を経て専業画家になります。
証券仲介人として働いていたころから趣味で絵画を描き、独学で創作活動をしていました。そして作品展に出品するようになってすぐ人気が出て、すぐに買い手がつきました。
しかし、作品を販売して稼げていたのも束の間、1882年に株価の大暴落が起こります。

ゴーギャンも不況の煽りを受け務めていた証券仲介会社をリストラされてしまいますが、この出来事をきっかけに、ゴーギャンは専業の画家になることを決意します。
しかし不況は芸術市場にも影響を及ぼし、多くの芸術家が苦労を強いられました。ゴーギャンはこの時その日暮らしの生活が精一杯なほど貧困を極めていたため、少しでも生活費を安くするために妻の実家があるデンマークのコペンハーゲンに移住することにしました。

コペンハーゲンに移住してからは、絵画を制作し販売すること以外で賃金を得ることが出来ないかを考えます。そして就職活動をしますが、初めて住むコペンハーゲンという土地にうまく馴染めず、なかなか思うような収入を得ることが出来ませんでした。

しかし、やはり自分は絵を描くしかないということに気づいたゴーギャンは、覚悟を決めてキャンバスに向かい続けます。そして1885年に再び芸術の都パリへ戻って、絵で食っていく挑戦しますが、パリの経済不況の状況は全く良くなっていませんでした。
そんな不況の中で絵画を売ることはもちろん難しく、ゴーギャンの生活はますます貧しくなってしまいます。

ゴーギャンはとにかく安い住まいを探し、愛する家族と離れ画家仲間と共同生活を始めました。ゴーギャンと同じような、まだ収入の不安定な画家が集まるブルターニュ地方へ行き仲間と一緒に作品を制作するというアイディアでした。
この決断は彼に画期的な変化をもたらし、多くの画家とのつながりを作れたり、刺激を受けたりすることができました。また、ゴーギャンも他の画家たちへ大きな影響を与えました。

ゴーギャンはますます創作活動に励みますが、不況は続きついに食事もままならないほどの貧困状態に陥り、すぐにパリに戻ることを余儀なくされてしまいます。

そして彼は経済の不況の煽りを受けない自給自足の生活にあこがれを抱くようになり、パナマへ移り住みました。しかしその生活も容易ではなく、栄養失調や体調を崩してしまうこともありました。
数週間パナマで過ごし、今度はフランス領の西インド諸島にあるマルティニーク島へ住むことを決めますが、ここでも感染病にかかり貧困と闘いながら制作を続けます。
そのときの作品が、後の有名画家ゴッホの弟で絵画商人のテオの目に止まり、脚光を浴びることになります。

ゴーギャンとゴッホの共同生活

ゴーギャンを語る上で、ゴッホとの共同生活については外せない事がらでしょう。
1888年頃ゴッホもまた、自分と同じような画家たちと一緒に生活ができないかと考えていて、ルノワールやセザンヌに声をかけますが断られてしまいます。
しかしゴーギャンだけは彼の方からに一緒に住まないかと提案をし、ゴッホが住むアルルに出向いても良いという手紙を送りました。

ゴッホはゴーギャンが自分のもとへ来てくれるということが楽しみで仕方がなく、毎日部屋の花瓶にさしたひまわりの絵を描き、12枚の絵を完成させました。
この頃描かれた彼の絵は生命力に溢れていて、明るくワクワクとした心情がうかがえます。そしてゴッホは食事をとることも眠ることも忘れるほどキャンバスに向き合い、ひまわりを描きました。

※画像はゴッホの描いた「アルルの女」

ゴーギャンがゴッホのもとに到着したとき、ゴッホは6枚のひまわりを描き終えていたところでした。そのときゴッホは南フランスの、アルルという小さな町にある黄色い壁の家に住んでいました。
ゴーギャンとゴッホは共同生活をし、アルルの町のアリスカンという小道をモチーフにして連作を描いたり、2人が通ったカフェの店員の女性をモデルにした「アルルの女」を制作したりしました。
また、ゴッホの作品にはゴーギャンの画風を真似したものがいくつもあり、ゴッホのゴーギャンに対する信頼や尊敬を感じます。

しかし2人はそれぞれ強烈な個性を持っている者どうしのため、口論になったり揉め事が起きたりすることもしばしばありました。
そしてついに、あの事件が起きてしまいます。
ゴーギャンに自分の描いた自画像の耳の描き方や完成度をからかわれて、怒りと恥ずかしさを抑えられなかったゴッホは、衝動的に自分の左耳を切り落としてしまったのです。
しかもその耳を、2人が好意を抱いていた娼婦のラシェルへ送りつけたそうです。
そして共同生活はたった2か月で破綻してしまうのでした。ゴーギャンは共同生活の中で21点、ゴッホは37点の絵を制作しました。
ゴーギャンがゴッホに与えた影響は大きく、この時代に描かれたゴッホの絵には、ゴーギャンらしい画風がが垣間見られます。

憧れの地タヒチで

※ゴーギャンがタヒチで描いた作品「タヒチの女たち」

ゴーギャンは、兼ねてから原始的な生活に憧れていました。そして1891年に念願の南国、タヒチへと渡ります。しかし当時のタヒチはフランスの植民地であり、フランスから逃げたはずなのに逃げられなかったことにゴーギャンは絶望します。
そしてゴーギャンは首都のパペーテを離れ、田舎の農村地帯パペアリに辿り着きます。そこはゴーギャンの求めていた自給自足の地でしたが、パリから来たゴーギャンは自給自足のノウハウが一切なかったため、金銭が尽きるとふたたびフランスに帰還せざるを得ませんでした。

ゴーギャンはその後パリでいくらか絵が売れますが、画家仲間との良好な関係を築くことが出来ず、1895年に再びタヒチへ向かいます。そしてそれからは長い間フランスに戻りませんでした。

この頃、ゴーギャンはタヒチで「肘掛け椅子のひまわり」を描きました。これはゴッホと過ごしたアルルの黄色い家での共同生活の一場面を描いた作品です。
ゴッホが亡くなってから既に10年以上が経過していましたが、ゴーギャンはゴッホとの共同生活の日々を忘れることはなかったのです。
ゴーギャンは友人に頼んでひまわりの種をタヒチに送ってもらい、育てて花が咲いたらその絵を描きました。
また、この絵画に描かれている肘掛け椅子はゴッホのもので、その上に置かれているのはゴッホが愛した花ひまわりです。

その後ゴーギャンは病気に侵され、自身が晩年に差し掛かっていることに気づきます。
そして1897年頃になると「死以外に我々を開放してくれる出口を見つけることができない」と語り、彼の代表作であり集大成「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへいくのか」を制作し、それが遺作となりました。
縦139×横374.5cmにもなる大作で、現在はボストン美術館が所蔵しています。そして1903年に54歳でこの世を去りました。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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