ボブ・ディラン:ノーベル文学賞を受賞したミュージシャン

「ボブ・ディラン」は、1960年代のアメリカで「フォークの貴公子」「時代の代弁者」として、国民からの厚い支持を受けました。2016年には、ミュージシャン初となるノーベル文学賞を受賞しています。そんなボブ・ディランが歩んできた“これまで”を紐解いていきましょう。

「ボブ・ディラン」のこれまで

生い立ち

ボブ・ディランは、1941年にミネソタ州ダルースで誕生しました。父親はエイブラハム・ジマーマン、母親はビアトリス・ストーン、祖父母はロシアのオデッサ(現ウクライナ)やリトアニアからアメリカへ渡ったユダヤ系移民です。ボブ・ディラン自身、シャブタイ・ツィメルマン(シャプサイ・ジスル)という、ヘブライ語の名前を持っています。

幼い頃、実家にあった古いピアノを独学で習得しました。ラジオから流れてくる音楽を聴いて、ピアノやギターの即興演奏をしていたようです。また、レコード店にはいつも入り浸っており、音楽に囲まれた環境の中で多感な子供時代を過ごしました。

高校に入学したボブ・ディランは、エルヴィス・プレスリーなどに憧れて、友人とバンドを組みます。1959年には、ボビー・ヴィーのバンドに参加し、ピアノ奏者としてステージを経験しました。

1959年秋、18歳になったボブ・ディランは、奨学金を得てミネソタ大学に入学します。しかし、授業に全く興味が持てず、僅か半年で通うのを止めてしまいました。この頃、エレキ・ギターからアコースティック・ギターに切り替え、フォーク・シンガーとしての活動に力を入れていきます。

また、ボブ・ディランと名乗り出したのも、ちょうどこの頃でした。「ボブ」はロバートの愛称「ボビー」、「ディラン」は敬愛するイギリスの詩人「ディラン・トーマス」から取ったとされています。(※諸説あり)

フォーク歌手のウディ・ガスリーに大きな感銘を受けたのもこの頃で、ボブ・ディランの音楽は、ブルース(アメリカの黒人音楽)やカントリー音楽(ヒルビリーやロカビリー)へと傾倒していきました。

※1960年代前半のニューヨーク

ニューヨークへ移住

1961年、半年しか通わなかったミネソタ大学を2年で中退します。20歳になったボブ・ディランはニューヨークへ拠点を移し、ミュージシャンとしての道を歩み始めました。

ニューヨークへ出てきてからは、かつてビート・ジェネレーションやカウンターカルチャーの中心地と言われたマンハッタンのダウンタウン街、グリニッジ・ヴィレッジ周辺のクラブなどで弾き語りを行います。

そんな中、タイムズ紙記者の論評で好評価を受けた事などがきっかけで、コロムビア・レコードのジョン・ハモンドにスカウトされ、1962年3月にアルバム「ボブ・ディラン」でレコードデビューを果たしました。

『Bob Dylan – Song to Woody』

1963年5月には、セカンド・アルバム「フリーホイーリン・ボブ・ディラン」(The Freewheelin’ Bob Dylan)をリリースします。

『Bob Dylan – Blowin’ in the Wind 』

ピーター・ポール&マリーがアルバム収録曲の「風に吹かれて」をカバーし、ビルボード2位の大ヒットを記録しました。

1963年8月には、キング牧師らによって人種差別撤廃を求める運動、「ワシントン大行進」が行われ、ボブ・ディランも演奏で参加しました。

一躍有名になったボブ・ディランは、「フォークの貴公子」「時代の代弁者」として、民衆からの熱烈な支持を得ていきます。

しかし、政治的なメッセージ性や過激化する運動を煽るような自身のイメージに、疑問を持つようになっていきました。1964年にリリースしたアルバム「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン」(Another Side of Bob Dylan)では、政治的なメッセージ性を含む「プロテストソング」(政治的な抗議や民衆を煽るような音楽)がなくなっています。

『Bob Dylan – My Back Pages』

1964年以降、様々なアーティストがボブ・ディランの曲をカバーしていきました。ザ・バーズがカバーした「ミスター・タンブリンマン」は、ビルボードで1位を獲得しています。この頃から、イギリスのアーティスト「ビートルズ」や「ローリング・ストーンズ」との交流が始まりました。

イギリスのアーティストとの出会い

ビートルズのメンバーであるジョン・レノンは、ボブ・ディランの生き方から生活スタイル、作品に至るまで、多大なる影響を受けています。また、ジョージ・ハリスンとは、生涯に渡る友となりました。

一方、ボブ・ディランもイギリスの「ブリティッシュ・インヴェイジョン」(イギリスのロックや音楽などのカルチャー)から影響を受け、1965年から1966年に「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」「追憶のハイウェイ61」「ブロンド・オン・ブロンド」といった、エレクトリック楽器を導入したアルバムを続々とリリースします。

『Bob Dylan – Like a Rolling Stone』

しかし、ミュージシャンとして絶頂期を迎えていた1966年7月、ウッドストック近郊でオートバイ事故を起こしました。死亡説まで流れる大事故でしたが、後に「あの事故による怪我は、自分にとって良い休息となった」とコメントしています。この時、実はサラ・ラウンズと秘密裏に結婚しており、事故の3週間ほど前に子供が誕生したばかりでした。

1967年からはウッドストックに籠り、レコード会社へ渡すためのデモテープ作りに打ち込んでいきます。こうしてボブ・ディランは、事実上の隠遁生活を送るようになりました。

隠遁生活からの復活

数年間の隠遁生活を経て、1970年に「セルフ・ポートレイト」をリリースします。1974年になってからは、コンサート活動も再開しました。

『Bob Dylan – Wigwam』

さらに、「ザ・バンド」と共に「プラネット・ウェイヴス」をリリースし、全米ツアーをスタートさせました。

『Bob Dylan – Forever Young (Slow Version)』

また、1975年10月から12月、1976年4月から5月にかけて「ローリング・サンダー・レヴュー」と題したツアーを行っています。このツアーは宣伝をせず、ゲリラ的に地方の小ホールでコンサートを決行するという物でした。ツアーの模様は、ボブ・ディラン自身が監督を務めた、映画「レナルド&クララ」に収められています。

ネヴァー・エンディング・ツアー

1980年頃は、大ホールでのコンサートツアーを盛んに行いました。また、1988年頃からは、再び小さいホールでの即興的なコンサートツアー「ネヴァー・エンディング・ツアー」を行っています。

このツアー以降、ボブ・ディランのライブは、押し並べて「ネヴァー・エンディング・ツアー」と呼ばれるようになりました。

ノーベル文学賞

2012年、バラク・オバマ大統領より大統領自由勲章を授与されます。そして、2016年10月にノーベル文学賞の受賞が決定しますが、ボブ・ディランは2週間の沈黙を続けました。

ノーベル賞授与式では、ノーベル文学賞委員会メンバーのホレス・エングダールが「詩という物の概念や詩とはどうあるべきか、という私達の考え方をボブ・ディランは大きく変えた」とスピーチしています。その後、授与式に出席出来なかったボブ・ディランに代わり、7分間に渡るスピーチが読まれ、参列者はスタンディング・オベーションで受賞を讃えました。

『Bob Dylan speech at the 2016 Nobel Banquet』

参考サイト:Wikipedia 【ボブ・ディラン】 閲覧日:2021年1月20日

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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