ヨーゼフ・ボイス:ドイツの原風景を追い求めて

「ヨーゼフ・ボイス」は初期のフルクサス(芸術運動のひとつ)にかかわり、「貨幣や権力が人間を抑えつけている社会を変える」ことを目的とした、社会彫刻という概念を打ち出したアーティストです。今回は「ヨーゼフ・ボイス」の活動を振り返ってみたいと思います。

「ヨーゼフ・ボイス」について

「ヨーゼフ・ボイス」は、1921年5月12日、ドイツのクレーフェルトで商売をする父「ヨーセフ・ジャコブ・ボイス」と、母「ヨハンナ・マリア・マルグレート・ボイス」との間に生まれました。

1921年の秋に、一家はライン川下流に位置する、オランダ国境に近い産業都市「クレーヴェ」へ移り住みます。ボイスは「クレーヴェ」で中学までの多感な時期を過ごしました。

シュヴァーネンブルク

「クレーヴェ」は、少し郊外に出ると豊かな自然に触れられる場所でした。周辺には白鳥伝説が残るクレーヴェ伯爵の住まい「シュヴァーネンブルク」(白鳥城)があり、ボイスは白鳥伝説やチンギス・ハーン伝説の影響を受けたといわれています。「クレーヴェ」周辺の豊かな自然や伝説は、ボイスの作品づくりに深く影響しており、モチーフとしてたびたび登場することになります。

15歳になったボイスは「ヒトラー・ユーゲント」に加入します。「ヒトラー・ユーゲント」とはナチス党の青少年教化組織で、10歳から18歳の青少年は全員参加することが義務づけられていました。ボイスは後に「誰もが当たり前に教会に行くように『ヒトラー・ユーゲント』に参加した」と語っています。

ナチスドイツは焚書といって、ナチズムの思想に反する書物を焼き払う儀式を盛んに行っていました。ボイスは焚書の中に彫刻家ヴィルヘルム・レームブルックの作品集を見つけ、衝撃を受けます。そしてレームブルックを尊敬し、彫刻家を目指して1940年代前半からデッサンを開始しました。
デッサンと併行する形で、「クレーヴェ」周辺に残る伝説や神話、自然科学にも傾倒し、神秘思想家である「ルドルフ・シュタイナー」にも大きな影響を受けています。

1941年、20歳になったボイスはドイツ空軍へ入隊しました。航空無線師としての訓練を受け、翌年の1942年にはクリミアに駐留する戦闘爆撃機に搭乗します。

1944年、ボイスが搭乗した戦闘機がウクライナに近いクリミアで、ソ連軍によって撃墜されます。ボイスはパラシュートでの脱出を試みるも戦闘機と一緒にそのまま墜落。その時、遊牧民のタタール部族に機体から引き出され、ボイスは一命をとりとめました。

タタールの部族は怪我を負ったボイスの体温がさがらないように身体に脂肪を塗り、フェルトで包んで手厚く看病しました。この逸話がボイスの展覧会のカタログにはよく登場します。ボイスにとってタタールの部族との交流は、芸術の原点、原風景の役割を果たす重要なファクターです。タタールの部族がボイスを看病するために使った脂肪やフェルトは、その後のボイス芸術にとって欠かせない素材になっていきます。

しかし、大半の研究者が「タタール人に助けられたという話はボイスの作り話ではないか」と言います。ボイスは3月17日から4月7日までの3週間、軍の病院で治療を受けていることがドイツ軍の記録に残されているのです。そのため、事故があったことは間違い無いでしょうが、戦闘機から救出したのはタタール部族ではなくドイツ軍の捜索隊だったと思われます。

1944年8月、ボイスは再び西部戦線に配属されます。1945年5月8日にドイツが無条件降伏した後は、クックスハーフェンで捕虜となり、イギリス軍の収容所で3カ月ほど過ごしたといいます。そして開放されると、両親が待つ「クレーヴェ」へ帰還しました。

デュッセルドルフ美術大学

戦後の1946年4月1日、ボイスはデュッセルドルフ美術大学の彫刻科に入学します。1年後、前衛芸術家の「エワルド・マタレー」のクラスに入りました。「エワルド・マタレー」は戦時中、ナチスドイツから退廃芸術家として弾圧されていたアーティストです。

「エワルド・マタレー」はノーベル文学賞を受賞した「ギュンター・グラス」に強い影響を受けていました。このクラスでボイスは「ハン・トリア」などのアーティストと出会い、「木曜日集団」という芸術家組織を結成します。「木曜日集団」は討論会やコンサート、展覧会などさまざまな催しを活発に繰り広げる芸術家の集団でした。

1953年、デュッセルドルフ美術大学のマスタークラスを卒業したボイスは32歳になっていました。卒業後は墓石の制作や家具製作で生活資金を得ます。この時期がボイスの人生でいちばん貧しく苦しい時代でした。
貧困の中で精神的に追い詰められたボイスは、1956年に深刻な「うつ病」を発症します。ボイスの支援者だった「ヴァン・ダール・グリントン兄弟」の家で静養しながら、「ボイスのユリシーズ」という一連のドローイングをはじめました。

その後1959年、デュッセルドルフの美術大学で教師をしていた「エーファ」と結婚します。1961年、ボイスはデュッセルドルフ美術アカデミー彫刻科の教授に就任しました。しかし、アカデミー当局との対立が深まり、1972年に教授職を解雇されてしまいます。ボイスのクラスからは「アンゼルム・キーファー」などのアーティストが出ています。
デュッセルドルフ美術アカデミーの教授を退いたボイスは、その後「フルクサス」のメンバーに加わり、ビデオアーティストの「ナム・ジュン・パイク」らと交流するようになります。

前衛芸術家運動「フルクサス」は、「イヴェント」を「ハプニング」と区別しています。日常的なモノを芸術の舞台に持ち上げて、その垣根を破壊するという、反芸術的な意図を持って「イヴェント」を行っていました。
ボイスは「フルクサス」に参加することで、作品制作をパフォーマンスアートへと進化させることになります。「フルクサス」を離れた後、「芸術が社会に対し何をなしうるか」というテーマを掲げて、オブジェやインスタレーションを制作するパフォーマンスをするようになりました。
この頃、ボイスのトレード・マークであるフィッシャーマン・ベストと帽子を常に着用するようになります。

蝋人形

1967年、「ドイツ学生党」を立ち上げ、79年には「ドイツ緑の党」に立候補。「7,000本のオーク」プロジェクトといった環境保護活動をはじめ、西ドイツに核ミサイルが持ち込まれたことに抗議する大規模な反核運動など、様々な政治・社会活動の先頭にボイスは立ち続けました。

時代を経てもボイス人気が薄れることはないようです。現在でも枯れ葉に豚のイラストが描かれた作品や、買い物袋に署名された作品が驚くほどの高値で取引されています。

まとめ

「ヨーゼフ・ボイス」について、その活動や考え方について迫ってみました。「ヨーゼフ・ボイス」の作品・インスタレーションは、脂肪やフェルト、酸化した鉄、動物の血液などの素材を使った、難解なテーマのものが多いという印象があります。しかし、ボイスの展覧会場に実際に立ってみると不思議な懐かしさがこみ上げてきます。ドイツの原風景を追い求めてきたボイス作品にぜひ触れてみてください。ボイスの作品は時代を経ても色あせることなく世界中の美術館で展示されています。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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