ピーテル・パウル・ルーベンス:王の画家、画家の王

ピーテル・パウル・ルーベンスは1577年にドイツのジーゲンで生まれた画家です。バロック期を代表する画家であるとともに、7か国語を操る外交官としても活躍し、王に重宝されたことから「王の画家、画家の王」の異名をとったことで有名です。そんなルーベンスの生涯と作品とはどのようなものだったのでしょうか。

■ピーテル・パウル・ルーベンスとは

(Public Domain /‘Portrait of the Artist ’ by Peter Paul Rubens. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ピーテル・パウル・ルーベンスは1577年、ドイツのジーゲンで生まれました。1587年に父親が亡くなってからはアントウェルペンに居を移し、ルーベンスはその地でカトリック教徒として育ちます。そのためルーベンスの作品にはキリスト教の影響を色濃くみることができます。

父親を亡くしたルーベンス一家は困窮しており、13歳になったルーベンスはフィリップ・フォン・ラレング伯爵の未亡人のもとに働きに出されることになります。そこで芸術的な才能を認められたルーベンスは、画家組合や聖ルカ・ギルドの入会を認められ、アダム・フォン・ノールトやオットー・ファン・フェーンといった当時のアントウェルペンを代表する画家のもとで修業を積むことになります。

1600年になると、古代や中世の芸術を学ぶ目的でイタリアに留学。ヴェネツィアではティッツァーノやヴォロネーゼ、ティントレットの作品を目にしています。その後はマントヴァに向かい、マントヴァ公と謁見、金銭的援助を得ることに成功します。1601年にはフィレンツェを経由してローマを訪れ、古代ギリシアやローマの作品の研究に勤めました。

こうしたイタリア留学によって、ルーベンスの芸術的才能は一気に開花します。また、ルーベンスは7カ国語を話せるという人文学的な教養があったこともあって、マントヴァ公の外交使節としてスペインに赴くという外交官的な役割も果たしています。

1604年にはイタリアに戻り、その後はほとんどの時期をローマで過ごしました。しかし1608年に母マリアが病に倒れ、アントウェルペンに戻ることになります。しかし、彼がアントウェルペンに戻る前に母は死去してしまい、ルーベンスは悲しみに暮れることとなります。

その数年後、1609年にはスペイン領ネーデルランドの君主でオーストリア大公であったアルブレヒト7世とスペイン王女イサベルの宮廷画家に迎えられ、特別にアントウェルペンに工房を構えることになります。この工房でルーベンスは、宮廷からの依頼を受けながら外交使節としての役割も果たすようになっていきました。また、この工房出身者の中にはアンソニー・ヴァン・ダイクがおり、二人で共作をしたこともあったようです。

1621年にはフランス王太后であったマリー・ド・メディシスの依頼を受けて、《マリー・ド・メディシス》の生涯を制作。24点からなる連作絵画は以降ルーベンスの代表作となっていきます。1627年から1630年までは外交官としてスペインとイングランドの王室を何度も往復し、1624年にはスペイン王フェリペ4世から、1630年にはイングランド王チャールズ1世からそれぞれナイトの爵位を得るほどの働きぶりでした。

その後晩年はアントウェルペンで過ごし、王侯貴族や有力者からの依頼にこたえていましたが、慢性の痛風を患っていたルーベンスは1640年5月30日に死去。62歳の生涯を閉じることになります。

■ルーベンスの作品

ルーベンスは多作の作家として知られており、その数は1200点以上とも言われています。そのほとんどが工房作品か他作家との共作でしたが、その驚異的な創作意欲は他の画家を圧倒するものでした。主題としては宗教画、歴史画などが多く、ついで肖像画を描いています。晩年になると風景画にも挑戦し、自ら新しい芸術の境地を探求するなど、最後まで画家であろうとした人物でした。そんなルーベンスの作品とはどのようなものだったのでしょうか。

・《マリー・ド・メディシスの生涯》 1621年-1625年

(Public Domain /‘The Disembarkation at Marseilles’ by Peter Paul Rubens. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1621年から1625年に制作された作品で、現在はルーブル美術館に所蔵されています。ルーベンス最大の大作にして代表作となった作品で、24点からなる連作という壮大なものでした。描かれているのはフランス王アンリ4世の妻であったマリー・ド・メディシスの生涯で、直接本人の依頼を受けて制作したものです。

依頼者であり画題となったマリー・ド・メディシスは政治的な不祥事を数多く引き起こしたことで有名であり、決してよい王妃とは言えない人物でした。また、大作かつ連作であることもルーベンスを苦しめることとなります。結果としてルーベンスはマリーの日常的な風景を取り上げ、神話のイメージを作中に取り入れることでマリーの正当性と尊厳を表現し、マリーもまたこれを絶賛しました。

本作品はのちのフランスの画家たちに大きな影響を与え、ロココ時代のアントワーヌ・ヴァトーやフランソワ・ブーシェなどに多大な影響を与えたといわれています。

・《三美神》 1630年-1635年

(Public Domain /‘The Three Graces’ by Peter Paul Rubens. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1630年から1635年に制作された作品です。描かれているのは、ラファエロやボッティチェリなども描いた主題である、タレイア、エウプロシュネ、アグライアの美の3女神たち。本作品に見られるように、ルーベンスの描く女性は肉付きがよく、艶やかな肌であることが多いです。
本作品は依頼されて描いたものではなく、ルーベンスの個人的な創作意欲によって制作されたものであり、死去するまでルーベンス自身の手元に置かれていました。現在はマドリードにあるプラド美術館に所蔵されています。3人の女神の表情や肌の質感が素晴らしいのはもちろんですが、身につけている宝石類の細かく丁寧な描写も見事です。ぜひプラド美術館を訪れた際は本作品をチェックしてみてください。大まかな描き方をされている背景の動植物との対比によって、三美神がよりいっそう輝いて見えるでしょう。

・《エレーヌ・フールマン》 1636年-1638年頃

(Public Domain /‘Helena Fourment in a Fur Robe’ by Peter Paul Rubens. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品1636年から1638年頃に制作された作品で、現在はウィーン美術史美術館に所蔵されています。描かれているのは、ルーベンスの二番目の妻エレーヌ・フールマンです。
本作品も、前にあげた『三美神』と同様、依頼ではなく画家自身の意思によって描かれたものです。

モデルとなっているエレーヌ・フールマンはその美しさを度々讃えられており、ルーベンスの友人は彼女のことをアントウェルペンのヘレネと言ったそうです。その美しさもあってか、ルーベンスは彼女の肖像画や彼女をモデルにした作品を多数残しています。その中でも本作品には特別な感情があったようで、遺言の中でエレーヌに本作を贈るとしています。

■おわりに

ピーテル・パウル・ルーベンスはドイツに生まれ、イタリアで修業を積んだのち、ヨーロッパの王侯貴族からの依頼を受け、多数の名作を残した画家です。また7か国語を話せるといった人文学的素養も重宝され、外交官として各国の宮廷を往復し平和に貢献した人物でもありました。そうしたルーベンスの影響は大きく、その豊かな表現はその後のロココ時代の画家たちに引き継がれていくこととなります。

現在ルーベンスの作品はフランスやスペインの美術館に所蔵されており、世界中から訪れる人々を魅了し続けています。

参考サイト:Wikipedia ピーテル・パウル・ルーベンス 閲覧2021年1月27日

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

関連記事一覧