ロッソ・フィオレンティーノ:マニエリスム美術をフランスに伝えた画家

ロッソ・フィオレンティーノは1495年フィレンツェに生まれた画家です。最初はデューラーの作品に学び、ローマで礼拝堂のフラスコ画制作などを行っていましたが、1530年に友人のアレンティーノからフランス国王フランソワ1世を紹介され、これがフランスにイタリアのマニエリスム美術が伝わるきっかけとなりました。そんなフィオレンティーノの生涯と作品とはどのようなものだったのでしょうか。

■ロッソ・フィオレンティーノとは

(Public Domain /‘Plate of “Il Rosso”’ by Giorgio Vasari. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ロッソ・フィオレンティーノは1495年にフィレンツェに生まれました。本名はジョバンニ・バティスタ・ディ・ヤコポといい、赤い髪をしていたことからロッソ・フィオレンティーノと呼ばれるようになったといわれています。

フィオレンティーノははじめポントルモとともにアンドレア・デル・サルトの工房で修業したのち、1523年の終わりごろにはローマに移り、盛期ルネサンスの画家であるミケランジェロやラファエロといった巨匠たちの作品に触れ、研究を重ねていきました。こうした巨匠たちの作風を取り入れた形跡はフィオレンティーノ作品の中に色濃くみられ、このころの学びがのちの作品に大きな影響を及ぼしたと考えられます。

そうして画家としての修業を積んでいたフィオレンティーノでしたが、1527年神性ローマ皇帝かつスペイン王カール5世の軍勢がイタリアに侵攻し、殺戮や破壊のかぎりをつくすというローマ劫掠が起きてしまい、フィオレンティーノはフランスに逃れます。1530年になるとフランス国王フランソワ1世の庇護を得ることに成功し、そのまま宮廷画家としてとどまることになります。

フランソワ1世の宮廷においてはフォンテーヌブロー城の改築に携わっており、広間の壁にフレスコ画の作品を残しています。こうしたフィオレンティーノの活動をきっかけとしてフォンテーヌブロー派と呼ばれる画家のグループが生まれ、フランス宮廷で活躍するようになります。そうした意味ではフィオレンティーノはイタリアとフランスの架け橋となった画家と言えるかもしれません。

■ロッソ・フィオレンティーノの作品

ロッソ・フィオレンティーノは初期マニエリスムを代表する画家として知られており、その理想的な人物表現と鮮烈な色彩を用いた表現が特長です。またラファエロの弟子やパルミジャーノと交流を結んでいたことで知られており、作品にはその影響を見て取ることができます。そんなフィオレンティーノの作品とはどのようなものだったのでしょうか。主要な作品を中心にご紹介します。

・《玉座の聖母子と4人の聖人》 1518年

(Public Domain /‘Spedalingo Altarpiece’ by Rosso Fiorentino. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1518年に制作された作品で、現在はウフィツィ美術館に所蔵されています。中心に描かれているのは幼子イエスを抱いた聖母で、彼女を囲うように左に洗礼者ヨハネ、大アントニオス、聖ステファノ、聖ヒエロニムスの聖人たちが描かれています。これらの人物は建築や風景の背景を持たず、シンプルな空間に圧縮されて配置されています。

聖母の椅子の階段に座り、聖典に没頭している二人の天使の子供たちによって、作品の緊迫感が少し和らげられています。聖ヒエロニムスのやけに骨の目立った身体、やせ衰えた顔、そして何かを捉えようとしている手は、フィオレンティーノの初期に見られる反古典主義的な精神を表現しています。

・《十字架降下》 1521年

(Public Domain /‘Descent from the Cross’ by Rosso Fiorentino. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1521年に制作された作品で、現在はヴォルテッラ美術館に所蔵されています。1521年にイタリアのヴォルテッラにある十字架信心会のために制作され、サン・フランチェスコ聖堂に隣接した当時は昼の十字架礼拝堂におかれたといわれています。

上部では、はしごに登っている人物たちが必死に十字架からキリストを下ろしています。下部では、聖母マリアが青白く落ち込んだ状態で二人の女性の腕の中で倒れ、真っ赤な服を着たマグダラのマリアは、聖母の足を抱きしめるながらうめき声をあげています。右側の悲嘆に暮れた使徒は、思わず両手で顔を覆ってしまっています。

・《玉座の聖母子と10人の聖人》 1522年

本作品は1522年に制作された作品で、現在はフィレンツェのピッティ美術館に所蔵されています。幼子イエスを抱きかかえた聖母を中心に、10人もの聖人たちが半円状に配置され描かれています。

フィオレンティーノはこの作品において、伝統的なピラミッド型の人物配置、抽象的なボリュームのある衣服、つまり不自然な布の表現、透明感たっぷりの色、不機嫌にも見える表情を描くことから脱却し、新たな要素を多く含ませて完成させました。

・《聖母の結婚》 1523年

(Public Domain /‘Betrothal of the Virgin’ by Rosso Fiorentino. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1523年に制作された作品で、現在はサン・ロレンツィオ聖堂に設置されています。描かれているのは聖母マリアの結婚のシーンです。

初期のフィレンツェ時代やヴォルテッラでの滞在時代のフィオレンティーノの作品に見られる大胆さと比較すると、落ち着いた雰囲気の作品の一つです。構図は、サンティッシマ・アヌンツィアータ教会の誓いの回廊にあるポントルモとフランチャビージョによるフレスコ画からいくつかのアイデアが取り入れられています。

・《ピエタ》 1530年-1535年

(Public Domain /‘Pietà’ by Rosso Fiorentino. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1530年から1535年にかけて制作された作品で、現在はルーブル美術館に所蔵されています。描かれているのは、死んで十字架から降ろされたイエス、それを痛む聖母マリアとマグダラのマリア、使徒ヨハネです。

斜めに描かれたイエスの体の半身は伸ばされ、絵の全体を広く占めています。必死になって両手を広げている聖母マリアは、磔刑による殉教を象徴的に現わしています。また、イエスは非常に洗練された服装と髪型をしたマグダラのマリアに足元を支えられており、使徒ヨハネは、マグダラのマリアの支えを補うように体を複雑にねじれさせ、跪いたポーズになっています。

■おわりに

ロッソ・フィオレンティーノはフィレンツェに生まれ、マニエリスムを代表する画家として活躍した人物です。1524年にローマに渡り新しい世代の画家として活躍していたものの、ローマ劫掠にあい、ローマからヴェネツィアを経て、フランス国王フランソワ1世の招きでフランス宮廷に渡り、イタリア・マニエリスムをフランス宮廷文化にもたらす架け橋となりました。フィオレンティーノの影響でフォンテーヌブロー派と呼ばれる画家のグループが成立し、宮廷文化をはぐくんだことを考えると、フィオレンティーノがもたらした影響は大変大きなものがあります。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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