ジョルジョ・ヴァザーリ:「芸術家列伝」を手掛けた芸術家

ジョルジョ・ヴァザーリは1511年イタリアのアレッツォに生まれた画家です。メディチ家のトスカーナ大公コジモ大公付きの芸術家としてウフィツィ美術館などを手掛けた芸術家として知られる一方、ミケランジェロを中心としたルネサンス期の芸術家の評伝を書き記したことでも知られており、現在の美術史の根幹となっています。そんなヴァザーリの生涯と作品とはどのようなものだったのでしょうか。

■ジョルジョ・ヴァザーリとは

(Public Domain /‘Self-portrait’ by Jacopo Zucchi. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ジョルジョ・ヴァザーリは1511年、イタリアのアレッツォに生まれました。ヴァザーリは若い頃からステンドグラスの才能ある芸術家であったフランス人のギョーム・ド・マルシラの工房に通います。同時に学者及び作家であったジョヴァンニ・ポリオ・ラッポリのレッスンを受け、そこで初めて人文主義的な教育、建築に触れました。

その後、ヴァザーリはフィレンツェで勉強を続けます。コルトーナのシルヴィオ・パッセリーニ枢機卿の側近のために、家庭教師として働いていました。パッセリーニによってメディチ家の宮廷に紹介されたヴァザーリは、学者ピエリオ・ヴァレリアーノによって人文主義的な教育を受けます。また、アンドレア・デル・サルトのアトリエやバッチョ・バンディネッリのデッサンアカデミーを頻繁に訪れ、デッサンの専門知識や遠近法の技術など、ヴァザーリに必要不可欠なスキルを培っていきます。

その後、メディチ家の庇護を受けるようになってからは、画家としての収入を得るようになっていきます。一家の経済状況は安定していたため、小さいながらとても豪華な家を建てることができました。邸宅は現在、博物館として使用されています。

1535年ごろから、ヴァザーリの宮廷生活はうまくいかなくなっていきました。結果的にメディチ家との関係が悪化し、深い憂鬱感に苛まれていたヴァザーリは、カマルドリに移り住みます。ここでは、修道士のための絵画を制作しました。新しい職業に就いたことで健康を取り戻したヴァザーリは、古代の作品を研究して絵画技術を身につけるため、1538年にローマに移住することを決意しました。メディチ家からフィレンツェに戻るようにと伝えられたこともありましたが、ヴァザーリはこれを拒否します。1554年まで続くメディチ家との離別が始まったのです。

その後は何年も執筆や絵画生活をしながら放浪生活を続けることになりましたが、ヴァザーリはいずれにしても、文化的な刺激と文学的な教養に富んだ環境に身を置いていました。

やがてヴァザーリは妻と共にアレッツォに移り住み、さまざまな建築や絵画の功績によってコジモ・デ・メディチのお気に入りの芸術家となり、活発で永続的な友好関係を結ぶことになりました。

ヴァザーリはパラツィオ・ヴェッキオやウフィツィ宮殿の改装などの仕事をてがけた建築家として知られていますが、そのもっとも大きな業績は何といっても1550年に「芸術家列伝」を出版したことでしょう。「芸術家列伝」は芸術家たちの列伝である一方、その技法についても研究した書物であり、のちの西洋美術史研究における礎になりました。イタリア初の美術史家として、今日でも流行している美術事典というジャンルを創始したのです。

1563年にはアカデミア・デッレ・アルティ・デル・ディゼーニョを創立し、後進の指導にも力を入れていました。1572年には、コジモ公によってアレッツォのロッジアとフィレンツェ大聖堂のドーム天井のフレスコ画の装飾を手掛けますが、結局これは3分の1しか完成していませんでした。コジモ公は1574年4月に死去し、ヴァザーリは同年6月27日にフィレンツェで死去しました。

■ジョルジョ・ヴァザーリの作品

ヴァザーリは「芸術家列伝」の著者として有名ですが、またマニエリスムを代表する画家としても知られています。その画風は誇張した人体表現や動作表現、また鮮やかな色彩や難解な寓意を取り入れたもので、典型的なマニエリスムの表現といえます。そんなヴァザーリの作品とはどのようなものだったのでしょうか。主要な作品を中心にご紹介します。

・《ゲッセマネの祈り》 1570年頃

(Public Domain /‘The Garden of Gethsemane’ by Giorgio Vasari. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1570年頃に制作されたと考えられている作品で、現在は東京の国立西洋美術館に所蔵されています。金融業を営んでいたラファエッロ・アッチャイウォーリの依頼で制作された5点の作品の一つであると考えられており、描かれているのは、新約聖書のマタイとルカの福音書からの一説で、ユダの裏切りを知ったイエスが、最後の晩餐の後にペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子を連れて、オリーブ山の麓にあるゲッセマネの園に行ったときの場面です。

下部では聖ペトロ、聖ヨハネ、聖大ヤコブらがうたたねをしている一方、上部ではイエスが両手を広げて祈りを捧げており、人物配置は三角形で構成されています。左上にはキリストを逮捕しようとする群衆を率いるユダが描かれていますが、これはこの主題の伝統的なイコノグラフィーです。

・《ロレンツィオ・デ・メディチの肖像》 1533年-1534年

(Public Domain /‘Portrait of Lorenzo de’ Medici’ by Giorgio Vasari. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1533年から1534年にかけて制作された作品で、現在はフィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されています。描かれているのはロレンツィオ・デ・メディチで、イタリア、フィレンツェのルネサンス期におけるメディチ家最盛時の当主であった人物です。

モデルであるロレンツォは、実際に自宅で着ていた服を着て描かれています。部屋着とはいえ、袖には毛皮の裏地が施されており、社会的地位の高さがよく伝わってきます。彼は仮面で飾られた大理石の柱にもたれかかっていますが、この柱に刻まれたラテン語の碑文には、「私の先祖が私にしてくれたように、私もまた、私の美徳をもって、子孫のために道を照らさなければならない」と記されています。

・《無原罪の御宿りの寓意》 1541年

(Public Domain /‘Allegory of the Immaculate Conception’ by Giorgio Vasari. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1541年に制作された作品で、現在はウフィツィ美術館に所蔵されています。描かれているのは「無原罪の御宿り」というカトリック教会の教義で、人類が等しく背負っている原罪は聖母マリアにはないとする教えです。

天使たちが運んでいるラテン語の碑文によれば、聖母マリアはサタンとイブに代表される罪深さに落ち勝つことのできる、救いの代理人であると示されています。下部では、裸のままのアダムとイヴが「知恵の樹」に手首を縛られており、女性の上半身をもつ蛇に巻かれています。また、旧約聖書の預言者や王たちも同じく「知恵の樹」に縛られています。救いの前における人類のこのような暗い状況から、洗礼者ヨハネはキリストの再臨を宣言しています。

・《聖ヒエロニムスの誘惑》 1541年-1548年

(Public Domain /‘Temptations of St Jerome’ by Giorgio Vasari. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1541年から1548年にかけて制作された作品で、現在はパラティーナ美術館に所蔵されています。描かれているのは聖書をラテン語に翻訳したことで知られる神学者、聖ヒエロニムスであり、荒野での修行の中、欲求に襲われ苦しんだ一説を主題としています。

学識ある芸術家であったヴァザーリは、頻繁に描かれてきた聖ヒエロニムスのこのエピソードに寓話的な要素を与えました。聖ヒエロニムスは十字架を思い浮かべていますが、彼の幻影は愛の女神ヴィーナスとキューピッドたちに擬人化されています。ヴィーナスは逃げているようにも見え、キューピッドは聖ヒエロニムスに矢を向けています。

■おわりに

ジョルジョ・ヴァザーリはイタリア、アレッツォに生まれ、トスカーナ大公コジモ1世をはじめとする有力者たちの庇護を受けて画家として活躍した人物です。時期としてはマニエリスムに位置しており、誇張された人体表現や鮮やかな色彩はマニエリスムの典型的な表現といえます。またその一方で建築家としても多数の作品を残し、フィレンツェの街づくりに貢献しました。

そしてヴァザーリの最大の功績はなんといっても「芸術家列伝」を執筆したことです。100人以上の芸術家たちの生涯とその技法を研究し、取りまとめた「芸術家列伝」はその後西洋美術史の礎となり、美術史研究に取り組む人々のバイブル的な存在となっています。またヴァザーリは「ルネサンス」という言葉をはじめて用いた人物であり、歴史家としてもそれぞれの時代をとらえる目を持っていたことがわかります。

ヴァザーリの作品はイタリアを中心とした美術館に所蔵されており、「芸術家列伝」は各国語に翻訳され、現在にまで読み継がれています。画家としても、歴史家としても世に残したという意味では、ヴァザーリは非常に優れた人物であったといえるでしょう。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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