パオロ・ウッチェロ:遠近法に固執し続けた画家

(Public Domain /‘Five Famous Men’ by Florentine School, Unknown Master,Italian. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

パオロ・ウッチェロは1937年にプラトヴェッキオに生まれた画家です。国際ゴシック様式とルネサンスの過度期に活躍したことで知られており、特に遠近法を駆使した作品を制作し続けたことで知られています。またあまりに遠近法に固執したことでも知られており、後世においてしばしば批判の対象となることもありました。そんなウッチェロの生涯と作品とはどのようなものだったのでしょうか。

■パオロ・ウッチェロとは

パオロ・ウッチェロは1397年ごろ、プラトヴェッキオに生まれました。生家は床屋と外科医を営んでおり、幼いころから芸術の素養を見せていたヴェッキオは1412年、ロレンツィオ・ギルベルティの工房に弟子入りし、修業を積むことになります。ロレンツィオ・ヴェッキオは初期ルネサンスにおける彫刻家として知られており、特に鋳造技術においては並ぶ者のいない腕前をもっている人物でした。また教育者としても知られており、ウッチェロの他にもドナテッロやミケランジェロ・ディ・バルトロメオといったルネサンスを代表する芸術家たちがギルベルティの工房で学んでいたことが知られています。そうしたなかでウッチェロは仲間と競い合いながら、芸術家としての力を身に付けていきました。

ウッチェロの精巧な表現は次第に広く知られることとなり、1425年にはヴェネツィアのサン・マルコ聖堂のモザイク装飾に携わっていたことがわかっています。この仕事でさらに名をあげることになったウッチェロはフィレンツェ大使の推薦を受けることとなり、1431年にはフィレンツェに帰国。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の仕事を引き受けることになります。

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂においては1436年に《ジョン・ホークウッド》を、また西側の時計の文字盤やドーム下部のステンドグラス3枚をデザインしていることが分かっています。また芸術家列伝を著したジョルジョ・ヴァザーリによれば、1445年にはドナテッロの求めで、パドヴァのヴィタリーニ邸のフレスコ画を制作。また1440年代に制作されたと考えられているフレスコ画がサン・ミニアート・アル・モンテ教会とサンタ・マリア・ノヴェッラ教会に残されているなど、フレスコ画を中心として教会や大聖堂に設置する作品を制作し続けていきました。

晩年になると大作《サン・ロマーノの戦い》を制作したものの、ヴァザーリによれば、家に引きこもるようになり、貧しい生活をするようになったといわれています。そうして1475年12月10日に亡くなり、サント・スピリト教会に埋葬されました。

■ウッチェロの作品

パオロ・ウッチェロは15世紀のイタリアを代表する画家として知られていますが、その一方で遠近法にあまりに固執して作品を制作したため、後世においては批判の対象となることもありました。そのためウッチェロは画家というよりも数学者と位置付けられたこともあるほどです。同じくマサッチオも《聖三位一体》など遠近法を駆使した作品を残していますが、当時の画家にとって遠近法は革命的な手法のひとつでした。そのためウッチェロやマサッチオも自身の作品に取り入れ、より表現の幅を開拓していったものと考えられます。そうしてルネサンスを導いていったウッチェロの作品とは、どのようなものだったのでしょうか。主要な作品を中心にご紹介します。

・《サー・ジョン・ホークの葬祭の記念碑》 1436年

本作品は1436年に制作された作品で、サンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂に設置されています。傭兵隊長のジョン・ホークウッドをイタリア半島で戦った兵士として称えるため、アルビッツィ家の依頼によって製作されました。

台座は下から見たアングルで描かれている一方、馬に乗った戦士は同じ目線の高さで見た時の遠近法で描かれています。この一見矛盾した遠近法の使用は、数え切れないほどの議論を巻き起こしましたが、ウッチェロの画法の独創性をさらに強めることとなりました。

・《サン・ロマーノの戦い》 1435-1440年ごろ

本作品は1435年から1440年ごろに制作された作品で、ロンドンのナショナル・ギャラリー、フィレンツェのウフィツィ美術館、パリのルーブル美術館に3部作それぞれが所蔵されています。描かれているのは、1432年に起きたフィレンツェ軍とシエナ軍の間で行われた戦いの様子です。

(Public Domain /‘Niccolò Mauruzi da Tolentino at the Battle of San Romano ’ by Paolo Uccello. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ナショナル・ギャラリーに所蔵されている《フィレンツェ軍の先頭に立つニッコロー・ダ・トレンティーノ》は1438年に制作されたと考えられており、3部作の中ではもっとも保存状態が悪い作品です。フィレンツェの指揮官ニッコロ・ダ・トレンティーノが白い馬車に乗り、見事な赤と金の帽子をかぶっています。彼は騎馬隊を率いて左から突撃しており、右側では白馬に乗った騎士が3人の騎馬隊を撃退しています。

ウッチェロは、当時比較的新しかった線を使って絵画の中に立体的な空間の印象を作り出す遠近法に強い関心を持っていました。手前の折れた槍は格子状の模様を作っており、地面に散らばった鎧は様々な角度で描かれていますが、倒れた騎士の身体の遠近は逆になっています。

(Public Domain /‘Niccolò Mauruzi da Tolentino unseats Bernardino della Carda[3] at the Battleof San Romano ’ by Paolo Uccello. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

《落馬するベルナルディーノ・デッラ・チャルダ》はサン・ロマーノの戦い三部作の2枚目にあたります。フィレンツェ軍の先頭に立つニコロ・ダ・トレンティーノが、戦いの渦中で敵軍の先頭に立つベルナルディーノ・デッラ・カルダを槍で押し退けている様子が描かれています。

(Public Domain /‘The Counterattack of Michelotto da Cotignola at the Battle of San Romano ’ by Paolo Uccello. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

《ミケーレ・アッテンドロの仲裁》はルーブル美術館に所蔵されている作品で、3部作の最後にあたる作品です。この作品は背景が暗いためか、他の作品よりも少しポップな印象を受けます。人物は慎重に構成されており、騎手と背の高い槍の群れが、夜の冷え切った暗闇の中で、色と生命の爆発のような効果を生み出しています。

■おわりに

パオロ・ウッチェロはプラトヴェッキオに生まれ、国際ゴシック様式とルネサンス様式の過渡期にあって遠近法を駆使した作品を制作し、さまざまな傑作を残した人物です。同時代の画家たちと比べると国際ゴシック様式の影響を色濃く受けているため、その色彩は時に不自然にさえ感じられるほどですが、数学者に数えられることもあったウッチェロの遠近法を駆使した表現はそれまでの二次元的な表現において革命的ともいえるでしょう。

ウッチェロはあまりに遠近法に固執して制作をし続けたため、色彩や構成の点において同時代の画家と比較すると劣っているとする見方もあります。実際に19世紀のロマン主義においてはしばしば批判の対象となることもありました。そんなウッチェロの作品は20世紀になってようやく評価されるようになり、幾何学的な構成を作品に取り入れた画家として現在も研究の対象となり続けています。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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