ギメ東洋美術館:ヨーロッパにおける最大の東洋美術コレクション

ギメ東洋美術館は1879年に開館した美術館で、ヨーロッパで最大級の東洋美術コレクションを有していることで知られています。もともとは実業家エミール・ギメによって設立されたものの、1945年にはルーブル美術館の東洋美術コレクションが移され、以降ルーブル美術館の東洋部としての役割も果たすなど、ヨーロッパにおける東洋研究の一大拠点として重要視されています。そんなギメ東洋美術館の歴史と主要な所蔵品について、詳しく解説していきます。

■ギメ東洋美術館とは

ギメは1836年にフランス、ローヌ県フルーリュー=シュル=ソーヌに生まれた実業家です。1860年に父が経営していた工場の経営を引き継いだものの、母が画家だったこともあってか芸術文化に非常に興味を抱いており、1865年にエジプトに旅行したことをきっかけとして異文化への興味関心を高めていきました。

その後1867年にパリ万博に出店し、1873年には第一回国際東洋学者会議に参加したことにより、東洋諸国の中でも特に日本への関心を高めていきます。ギメはインドや中国、そして日本にも旅してまわり、1879年にはリヨンでコレクションを発表、1889年にはそのコレクションをもとにして正式にギメ美術館が開館することになりました。ギメの死後も東洋美術のコレクターたちからの寄贈が相次ぎ、ギメ美術館はヨーロッパでも随一の東洋美術コレクションを有する美術館になっていきました。

また1945年にはギメ美術館の古代エジプトコレクションがルーブル美術館に移管され、その代わりにルーブル美術館のアジア美術コレクションがギメ美術館に移管されたことから、アジア以外では最大級の東洋美術館コレクションを有する美術館となりました。

■ギメ東洋美術館のコレクション

ギメ東洋美術館のコレクションはギリシアとエジプトの古代文明のコレクションから始まり、その後中央アジア、インド、中国、東南アジア、韓国、日本などコレクションの範囲を徐々に広げ、ヨーロッパにおける最大級の東洋美術コレクションを所蔵するようになっていきました。仏像や絵画、器といったコレクションもさることながら、諸国の貴重なテキスタイル展示も行っています。

また展示も5500平方メートルという広々としたスペースを用いた常設展示や企画展、コンサートや映画上映、東洋美術に関する膨大な資料を閲覧できる図書館など施設も充実しています。そんなギメ東洋美術館の所蔵品の中には、どのような作品が含まれているのでしょうか。詳しく解説していきます。

・《神奈川沖波裏》 1830-1832年

冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏 葛飾北斎

本作品は1830年から1832年に葛飾北斎によって描かれた浮世絵で、《富嶽三十六景》全46図中の1図です。25.7cm×37.9cmの大判横絵で、大波と3隻の船、そして富士山という三つの要素で構成されており、世界でもっとも有名な日本美術作品の一つといえるでしょう。

葛飾北斎は《富嶽三十六景》の他にも《北斎漫画》や《蛸と海女》など数々の名作を残しており、生涯に3万点を超える作品を制作しました。浮世絵ばかりではなく、読み本や挿絵などにも制作の幅を広げたことで、庶民にも広まるきっかけを作ったといわれています。また北斎の浮世絵はヨーロッパに渡り、印象派の画家やフィンセント・ファン・ゴッホなど近代美術の巨匠たちに注目され、中には《ラ・ジャポネーズ》を描いたクロード・モネなど、自らの作品に日本の要素を取り入れる画家も現れました。またクロード・ドビッシーは本作品からインスピレーションを受けて作曲したとも言われています。1999年にはアメリカの雑誌「ライフ」で「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」の中に選ばれています。

そんな北斎が描いた本作品は富士山と船、波というたった三つの要素で構成されていながら、非常にダイナミックな表現となっている作品です。富士山は日本において国の象徴、あるいは神聖な存在として信仰されており、それまでの作中では富士山は雄大に描かれるのが常でした。しかし本作品では富士山は小さく描かれ、前景に描かれる大波とのコントラストを作り出しています。

中景に描かれる3艘の船は当時活魚輸送などに用いられた押送船で、船ごとに8人の漕ぎ手と2人の乗客が描かれています。荒れ狂う波の中で船に乗る人々はひたすら身体を固くして波に耐えており、激しい動きを作り出す波との対比を作り出しています。

そして本作品においてもっとも印象的なのは前景に描かれた波でしょう。押送船は一般的に12メートルから15メートルであることから、波の高さは10メートルから15メートルではないかと考えられています。北斎の存命中には大きな津波は発生していないものの、過去の津波や1792年に九州で起きた肥後での津波を伝え聞いていた可能性もあり、作中に描いた可能性も指摘されています。

・《勢至菩薩像》 12世紀

本仏像は仏教における菩薩の一尊である「勢至菩薩」を表したものです。日本では午年の守り本尊、かつ十三仏の一周忌本尊として知られています。阿弥陀三尊の右脇侍として設置されることが多く、「観無量寿経」では「知恵を持って遍く一切を照らし、三途を離れしめて、無上の力を得せしむ故、大勢至と名ずく」とあり、苦しみを払い正しい行いをさせる菩薩として信仰されています。

ところで、なぜ日本の仏像がギメ東洋美術館に渡ったのでしょうか。もともとこの仏像は日本の法隆寺に設置されていました。しかし日本が明治時代に入ると神道を国家宗教にする動きが高まり、「廃仏毀釈」がおこなわれました。もともと日本では神道も仏教も等しく信仰されていましたが、天皇を頂点とする国家をつくるためには天皇の祖先である神道の神々を侵攻し、仏教を廃する必要があったのです。廃仏毀釈はそうした動きを推し進めるために行われ、その名の通り仏像を破壊し、釈迦の教えを壊すという運動が行われました。こうした動きを受けて法隆寺では聖徳太子に関する宝物を300点余り皇室に献上しており、その際に仏像が流出したのではないかと考えられています。1994年にはギメ東洋美術館から日本への里帰りが実現し、本来安置されていた阿弥陀如来像と並ぶ形で展示されました。

■おわりに

ギメ東洋美術館は実業家であるエミール・ギメがなした財をもとに集めた東洋美術コレクションから始まっており、ギメの死後もコレクターたちからの東洋美術の作品が所蔵されたことにより、ヨーロッパにおける一大東洋美術コレクションとなっていきました。

パリ万国博覧会での東洋美術への注目や、印象派やポスト印象派への影響など、東洋美術はヨーロッパの近代美術に多大な影響をもたらしました。実際にギメ東洋美術館のコレクションにインスピレーションを受けて制作されたという作品も数多く存在します。

またその一方で日本の勢至菩薩の例など、東洋からもたらされる際にさまざまな混乱があって持ち去られた例も存在します。古代文明や諸外国で制作された所蔵品は、政局の混乱のなか持ち去られたり、戦利品として強奪されたりといった例もあります。美術館では普段は行くことのできない国々の事物を適切な環境の下鑑賞することができますが、こうした問題意識も気に留めておくべきなのかもしれません。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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