ナンシー美術館:ロココ様式の優美な美術館

ナンシー美術館はフランスのナンシーにある美術館で、1793年に開館しました。ルーベンスをはじめとしたフランドル絵画やカラヴァッジョ、ティントレットといったイタリア絵画にくわえ、クロード・モネやピエール・ボナール、モーリス・ユトリロといった19世紀、20世紀に活躍した画家たちの作品が収蔵されています。そんなナンシー美術館の歴史と所蔵品について詳しく解説していきます。

■ナンシー美術館とは

ナンシー美術館は、フランスのナンシーにある美術館で、1793年に開館しました。ナンシーはフランス北部、グラン・テスト地域圏の都市で、ムルト=エ=モゼル県の県庁所在地となっています。鉄鋼業で有名なほか、スタニスラス広場やカリエール広場、アリアンス広場はユネスコの世界遺産に登録されており、経済面や文化面においても重要な都市であるといえるでしょう。

そんなナンシーにあるナンシー美術館が開館することになったきっかけは、ナポレオンによる文化振興政策が行われたことからです。パリ以外の都市の文化的水準を上げるために、ナポレオンはルーブル美術館と同じ規模の美術館を各地に設立することにし、ナンシー美術館もその中に含まれていました。そのため地方美術館としては大変充実したコレクションを所有していることで知られています。

■ナンシー美術館のコレクション

ナンシー美術館のコレクションはルーベンスをはじめとしたフランドル絵画に加え、ティントレットやカラヴァッジョなどのイタリア絵画、また19世紀、20世紀に活躍したエドゥアール・マネやクロード・モネ、モーリス・ユトリロなどの作品が所蔵されていることで知られています。そんなナンシー美術館のコレクションには、どのような作品が含まれているのでしょうか。主要な作品をご紹介します。

(Public Domain /‘Battle of Nancy’ by Eugène Delacroix. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

《ナンシーの戦い》 1828年 ウジェーヌ・ドラクロワ

本作品は1828年、ウジェーヌ・ドラクロワによって描かれた作品で、1477年に起きたナンシーの戦いが主題になっています。

ウジェーヌ・ドラクロワは1798年にフランスのサン=モーリスに生まれた画家で、フランスの19世紀ロマン主義を代表する人物として知られています。新古典主義の画家ピエール=ナルシス・ゲランに入門したのち、アントワーヌ=ジャン・グロの強力な推薦でサロンに入選、1824年には《キオス島の虐殺》を出品します。《キオス島の虐殺》は実際に起きた事件を主題とした作品であったため、そのあまりに生々しい表現はサロンでも大きな議論の的となり、酷評されたこともあったものの、政府の買い上げとなります。その後は《民衆を導く自由の女神》などフランスを代表する傑作を制作。また、1832年にはフランス政府の外交使節付きの記録画家としてモロッコを訪問し、《アルジェの女たち》なども制作しています。本作品はそんなドラクロワが初めて受けた公的な受注作品であり、国王や内大臣、ナンシー市や王立科学協会、芸術協会などと何度も話し合って制作されました。

ナンシーの戦いはブルゴーニュ公シャルルとロレーヌ公ルネ2世との間で起こったブルゴーニュ戦争最後の戦いで、結果的にはルネ2世が勝利します。作中で左下に描かれているのがブルゴーニュ公シャルルで、向かってくる槍に恐怖を感じているような顔をしています。右側では、ルネ2世が白馬に乗り、中央の騎士が敵を殺すのを見ています。一方、主題の中心は歴史的なシーンの重要人物ではなく、横たわる兵士と馬の死体になっています。

(Public Domain /‘Christ on the Cross’ by Jan Lievens. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

《十字架のキリスト》 1631年 ヤン・リーフェンス

本作品はヤン・リーフェンスによって描かれた作品で、磔刑に処せられたキリストが描かれています。

ヤン・リーフェンスは1607年にライデンに生まれた画家で、ピーテル・ラストマンのもとで修業したのち、12歳で独立。若くして才能を認められ、神童として知れ渡るようになっていきました。また英国大使を通してジェームズ1世に作品を献上し、31歳でイングランド宮廷に招かれるなど、人気は落ち着くことがありませんでした。実際に貴族や市長たちから数多くの作品を受注していたことが分かっており、アムステルダム市長の部屋のために描いた作品があることも確認されています。

またリーフェンスは1626年からレンブラントと共同で工房を構えており、2人は24ほどの作品を競作しました。リーフェンスとレンブラントは1631年に別れ、リーフェンスはイングランドに、レンブラントはアムステルダムに移ったものの、その後の作品にはお互いの影響が見て取れます。

本作品は磔刑に処されるキリストが描かれている作品で、背景は黒や灰色、身体は赤といった不安をあおるような色で構成されています。キリストの脇腹からは血が流れ、手と足に打たれた杭は生々しいほどです。キリストは助けを求めるかのように天を見上げており、その先にはほのかにオレンジ色の光がさしています。この光は、父なる神の意志が反映されていることを意味していると考えられます。

(Public Domain /‘Germaine Survage with Earrings’ by Amedeo Modigliani. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

《ブロンドの女》 1918年 アメデオ・モディリアーニ

本作品は1918年にアメデオ・モディリアーニによって描かれた作品で、ブロンドの女性が描かれています。

アメデオ・モディリアーニは1884年にトスカーナ地方のリヴォルノに生まれ、幼いころからその才能に気が付いていた母の助けで芸術の道に進むことになり、1906年にはパリに移住します。パリではパブロ・ピカソやギヨーム・アポリネール、アンドレ・ドランといったモンマルトルの画家たちと知り合うことになり、モディリアーニ自身も数々の作品を制作しました。1917年には愛し合う仲となるジャンヌ・エビュテルヌと出会うものの、大量の飲酒や薬物依存が原因で結核性髄膜炎により35歳の生涯を閉じることとなってしまいます。その後ジャンヌもモディリアーニの後を追って自殺しており、悲劇の画家として知られています。

モディリアーニの代表作はほとんどが1916年から1919年に集中しています。また、それらは油彩の肖像画か裸婦を描いた作品であり、顔と首が異様に長いプロポーションで、目には瞳を描きこまないという独自の表現で描かれています。モディリアーニは彫刻作品も制作しており、その表現が絵画作品にも影響したのではないかといわれています。本作品はそんな中で瞳が描かれている珍しいタイプの肖像画であり、赤い唇が印象的な作品です。耳に飾られたピアスは女性が来ている黒のドレスとうまく調和しており、画面全体にバランスを生み出しています。

■おわりに

ナンシー美術館はナポレオンの文化政策をきっかけとして設立した美術館で、フランドル絵画やイタリア絵画、19世紀から20世紀の近代絵画の充実したコレクションを所有していることはもちろん、現代美術や工芸作品も所蔵しています。また美術館の建物がもともと宮殿として用いられてきた建物であり、地下には都市城壁の遺産も残されていることから、ナンシーの歴史を伝える重要な施設といえるでしょう。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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