キヨッソーネ東洋美術館:日本美術に心酔したキヨッソーネの美術館

メトロポリタン美術館所蔵品(Public Domain /‘Kintai Bridge in Suō Province (Suō no kuni Kintaibashi), from the series Remarkable Views of Bridges in Various Provinces (Shokoku meikyō kiran)’by Katsushika Hokusai. Image viaThe Metropolitan Museum of Art)

明治政府の“お雇い外国人”であったイタリア人、エドアルド・キヨッソーネは日本美術に魅了され、膨大な美術コレクションを収集します。特に浮世絵コレクションが多く、海外の美術館の中では屈指の数を誇っています。自身も版画家であったキヨッソーネを心酔させた日本美術とはどのような作品であったのでしょう。キヨッソーネ東洋美術館を紹介します。

キヨッソーネ東洋美術館とは

キヨッソーネ東洋美術館はイタリアのジェノバ市にある美術館で、ジェノバ東洋美術館とも呼ばれます。ジェノバ出身のエドアルド・キヨッソーネ(1833年-1898年)が日本滞在中に収集した、東洋、日本の美術品を展示している美術館で、その日本美術品コレクションの数は15000点にも及びます。

1875年(明治8年)キヨッソーネは先進の紙幣印刷技術を導入するために、明治政府の“お雇い外国人”として日本の大蔵省印刷寮に招かれました。ヨーロッパの印刷技術は革新的であり、キヨッソーネによって紙幣、切手、証券類の印刷技術の本格化が日本にもたらされたといえます。

自身も彫刻師・銅版画師であったキヨッソーネは、多くの紙幣や債券の版を彫り、その数は500点以上に及びます。また、肖像版画の制作でも知られており、現存する明治天皇や西郷隆盛のよく知られているイメージ像はキヨッソーネ制作の肖像画によるものです。大蔵省の仕事のかたわらキヨッソーネは日本の美術に魅了され続け、当時破格に高額であった彼の収入のほとんどは美術品収集につぎ込まれていきます。

キヨッソーネ死後、収集した美術品は彼の出身校であるイタリアのリグーリア美術学校の3階の美術館で1905年から1942年まで展示されました。しかし、第二次世界大戦勃発のためにコレクションは、ジェノバ市によって安全な場所に疎開・保護されます。そして終戦後、キヨッソーネの遺言によって所有者となった市は、コレクションを恒久的に保存するための美術館建設が審議し、適切な場所としてヴィレッタ・デイ・ネグロ公園内が選びました。1953年工事が着工され1970年に完成、1971年5月7日「キヨッソーネ東洋美術館」が開館しました。

Musei di Genova

キヨッソーネ東洋美術館のコレクション

キヨッソーネが収集した日本美術品コレクションは15000点以上にも及びます。なかでも特に浮世絵版画が3269点、肉筆浮世絵は286点と、世界屈指の浮世絵コレクションをもつ美術館であるといえます。

菱川師宣、鳥居清信、鳥居清忠、葛飾北斎、北川歌麿、東洲斎写楽、歌川広重、歌川国芳、歌川豊国ら巨匠達による浮世絵のコレクションは、キヨッソーネの日本美術への情熱をうかがわせます。

その他、日本や中国の先史時代からの青銅器、仏像や仏教美術、甲冑、陶磁器、漆器、掛け軸、能面や挿絵本など多岐にわたっており、東洋美に含蓄の深いキヨッソーネならではといったコレクションです。
では、キヨッソーネが心酔したキヨッソーネ東洋美術館のコレクションを紹介しましょう。

《諸国名橋奇覧すほうの国きんたいはし》1833年-1834年頃葛飾北斎

本作品は1833年から1834年頃(天保4~5年)に、世界的な巨匠の葛飾北斎によって制作された絵画です。

葛飾北斎は江戸時代後期、化政文化の時代に活躍した天才浮世絵師です。北斎の作品は日本の浮世絵師たち、歌川広重や国芳のみならず、ゴッホをはじめとする印象派の画家、音楽家ドビュッシーなど世界の芸術家達に強い影響を与えました。代表作は「富嶽三十六景」「北斎漫画」などで、88歳でその生涯を閉じるまで3万点を超える作品を精力的に描き続けました。

葛飾北斎は1760年(宝暦10年)江戸本所割下水(現在の東京都墨田区)で生まれました。19歳で当時主流の浮世絵師であった勝川春章に弟子入りし、狩野派や西洋画、唐絵など様々なジャンルの絵画を学んでいきます。また、北斎は生涯において30回画名を変え、93回引っ越しをします。これは常に変化と改革を望む北斎の精神の現れだったのかもしれません。

森羅万象のあらゆるものを描くことに執念を燃やし、絵への飽くなき探求をし続けます。そして70歳を過ぎた頃に「富嶽三十六景」で風景画の新境地を切り開きます。「富嶽三十六景」に続いて、「諸国滝廻り」「千絵の海」と揃絵の風景画の名作を次々と生み出し、その最後に「諸国名橋奇覧」を制作します。

(Public Domain /‘Under the Wave off Kanagawa (Kanagawa oki nami ura), alsoknown as The Great Wave, from the series Thirty-six Views of Mount Fuji (Fugaku sanjūrokkei)’by Katsushika Hokusai. Image viaThe Metropolitan Museum of Art)

「諸国名橋奇覧すほうの国きんたいはし」は、奇橋を描いた11枚の揃絵のうちの1枚で、すほうの国(周防、今の山口県)のきんたいはし(錦帯橋)を描いたものです。錦帯橋は日本3大奇橋の一つで、アーチ形で複雑な構造が美しい独特な景観の橋です。背景に描かれている山は存在しない部分もあり、伝承や想像をもとに北斎が描いた可能性があるといわれています。また、「諸国名橋奇覧」の橋の中には実存しない伝説の橋の絵などもあり、北斎独特の想像力による描写が試みられています。北斎の絵への試みと情熱は風景画の中にこめられおり、今も観る人の心を掴え続けています。

(Public Domain /‘Gotenyama no hanami’by Kitagawa Utamaro. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

《御殿山の花見駕籠》1805年喜多川歌麿

本作品は1805年(文化2年)頃に制作された(と思われる)、美人画で有名な浮世絵師の喜多川歌麿の作品です。

喜多川歌麿は江戸時代後期に活躍した美人画を主とする浮世絵師で、本姓は北川、幼名を市太郎、1753年(宝暦3年)頃生まれたとされており、正確な出生や出身地などは不明です。狩野派の鳥山石燕に師事し、1775年(安永4年)に北川豊章の画名で画壇に登場、1782年頃に歌麿と改めます。

1788年頃から版元の蔦屋重三郎に見いだされ、当時人気であった狂歌の絵本の挿絵を手がけたことから注目を集めるようになります。そしてこの頃より歌麿は独特な画法で女性の理想美を追求し始めます。女性の様々な表情や姿態を繊細で優美なタッチで描き、歌麿の美人画は大人気となっていきます。また、人物の上半身を大きく描き、その表情を強調して描くことによって人物描写の極致を追求した、大首絵(大顔絵)を編み出しました。

(Public Domain /‘Three Beauties of the KwanseiPeriod’by Kitagawa Utamaro. Image viaThe Metropolitan Museum of Art)

1791年(寛政3年)頃、当時の女性の姿を描いた「婦女人相十品」や「婦人相学十躰」など美人大首絵を打ち出し大流行、人気絵師となります。また、この頃発表された、実存する美女達を描いた美人大首絵「寛政三美人」は歌麿の代表作であり、今でも世界的に有名な作品です。

1804年(文化1年)、太閤記を題材にした錦絵が幕府を揶揄したという罪で歌麿は処罰を受けます。以降体調を崩し、その中でも制作し続けた歌麿は疲弊していきます。

そして1806年(文化3年)喜多川歌麿は享年54才で逝去しました。

「御殿山の花見駕籠」は大判の錦絵三枚続きで構成されます。花が咲き乱れる晴天の中、駕籠から降りようとする姫君と女中たちの仕草、表情が優美で美しい作品です。その出で立ちは町人風であり、駕籠かきの姿も無いことから一種の想像画であるとされます。この絵の改印(検閲印)は文化2年(1805年)であり、歌麿の最晩年の作品とみられています。

(Public Domain /‘Matsumoto Yonesaburo as Kewaizaka no Shosho in the Play “Katakiuchi Noriyaibanashi”’by Tōshūsai Sharaku. Image viaThe Metropolitan Museum of Art)

《初代松本米三郎の化粧坂少将実はしのぶ》1794年東洲斎写楽

本作品は1794年(寛政6年)謎の人気浮世絵師の東洲斎写楽によって描かれた作品です。

東洲斎写楽は江戸時代、1794年5月から1795年1月(寛政5~6年)の約10か月間のみ活動し、忽然と画壇から姿を消した人気浮世絵師です。写楽の本姓、生没年、出身、出生、全てが不詳であり、その正体は果たして誰なのかという物議をかもす「謎の浮世絵師」といわれています。

東洲斎写楽は大首絵を主として描き、蔦屋重三郎の版元で140種に及ぶ歌舞伎役者の似顔絵を作成し、人気を博しました。役者それぞれの個性を誇張した表情や大胆なポーズを描く写楽の大首絵は、それまでの浮世絵の概念を覆す非常に斬新なものでした。煌めく雲母刷りの豪華な大判、リアルに描かれた役者大首絵は当時の人々の心を捉え、たちまち大人気となります。

しかしその栄華は10か月で終わりを迎えます。あまりにも個性的であったため、またはあまりにも真に迫り過ぎた絵であったため、批判的な風評があり画壇を去ったとの見方がされています。1795年以降、突然姿を消した写楽は、その後一切浮世絵界とのかかわりを絶ち、謎の絵師として後世に語られることになります。

「初代松本米三郎の化粧坂少将実はしのぶ」は、1794年(寛政6年)に上演された「敵討乗合話」の場面を描いたものです。「敵討乗合」は父を殺された宮城野と、しのぶという名の姉妹が力をあわせて敵を討つ話です。この絵は、しのぶが敵を探るために化粧坂少将という名の遊女になった場面で、その役を人気女形の松本米三郎が演じているのを描いています。当時21才の若々しく美しい米三郎を、写楽が現実そのままに可憐に描いているのがわかります。役者の華麗さ、美しさを生き生きと再現する写楽の大首絵は当時のエンターテイメント発信基地であったといえるでしょう。

おわりに

キヨッソーネ東洋美術館は中国、日本の美術品を多岐にわたってコレクションしています。浮世絵をはじめ、日本でも普段あまり見る機会のない優れた美術品が多く展示されています。イタリアを訪れる機会があれば、ぜひ足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

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※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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