パラッツォ・バルベリーニ:「蜂」の紋章が目印のバロック建築が美しい美術館

パラッツォ・バルベリーニはローマにある国立美術館で、1953年に開館しました。元々はバルベリーニ家が住んでいた宮殿で、イタリア・バロック建築を伝える建造物としても価値のあるものです。13世紀~18世紀の作品を中心に集められた美術品は、ローマでも有数の質と量を誇ります。それでは、パラッツォ・バルベリーニ(国立古典絵画館)の歴史と所蔵品について詳しく解説していきます。

パラッツォ・バルベリーニとは

パラッツォ・バルベリーニはローマのバルベリーニ広場近くにあり、1953年に開館しました。

バルベリーニ家は、ウルバヌス8世というローマ教皇を輩出した貴族で、このパラッツォ・バルベリーニもウルバヌス8世が命じて1625年から建設が始まりました。バルベリーニ広場やパラッツォ・バルベリーニのあちらこちらにある「蜂」の紋章は、バルベリーニ家のシンボルです。当初の建築家はカルロ・マデルノでしたが、1629年に死去したことにより、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニとそのライバルであったフランチェスコ・ボッロミーニが引き継ぎました。1633年頃おおむね完成したパラッツォ・バルベリーニは、「イタリア・バロックの3大建築家が参加した珍しい作品」として知られています。

その後も長きに渡ってこの宮殿にバルベリーニ家の当主が住み続けますが、1949年に政府の所有となり国立美術館として利用されるようになりました。現在は「コルシーニ宮殿」とセットで「国立古典絵画館」と呼ばれています。また、1953年に映画「ローマの休日」にパラッツォ・バルベリーニの門が使用されたことでも有名です。

バルベリーニ

パラッツォ・バルベリーニの所蔵品

パラッツォ・バルベリーニでは13世紀~18世紀の絵画を中心にコレクションされています。もともとバルベリーニ家が持っていた美術コレクションは、売却などの理由でほとんど所蔵されておらず、かわりにコルシーニ宮殿に収まりきらなくなったトルロニア家やキージ家などのコレクションを多く見ることができます。美術品の質と量はローマでも有数のコレクションとなっています。

そんなパラッツォ・バルベリーニにはどんな所蔵品があるのでしょうか。主要な作品をご紹介します。


《若い婦人の肖像(別名:ラ・フォルナリーナ)》1520年頃ラファエロ・サンティ

本作品は1520年頃に、ルネッサンス盛期におけるイタリア人画家・建築家ラファエロ・サンティによって描かれました。

ラファエロ・サンティは、1483年中央イタリアの都市国家ウルビーノ公国で、ウルビーノ公宮廷画家ジョヴァンニ・サンティの息子として生まれました。ウルビーノ公国の君主は文学・美術を重視していたため父ジョヴァンニへの待遇も良く、ラファエロは宮廷で生活する中で洗練されたマナーと社交的性格を身に付けていきます。しかし両親が相次いで亡くなったため、父方の伯父が11歳で孤児となったラファエロの後見人になりました。

10代でウンブリア派の画家ペルジーノの弟子になったとされており、初期作品では大きく影響を受けていることがわかります。弟子期間を経て独立してからは次第に独自の作風に変化し、多くの絵画制作の注文を受けるようになりました。

その後、ラファエロは北イタリアの主要都市を放浪しながら絵画制作を続け、フィレンツェではさらなる修行を重ねたと言います。なかでもレオナルド・ダ・ヴィンチの影響は大きく、人物像の描き方がより生き生きとしたものへ進化していきます。1508年頃になるとローマに移り住み、50名以上の弟子・助手を擁する工房を作りました。ローマで描かれたラファエロの作品のほとんどがこの工房で描かれたとされています。

本作品もローマ時代に描かれており、モデルはパン職人の娘マルガリータ・ルティであると考えられています。左乳房に右手を添える「ヴィーナスプディカ」という古典的な彫刻のポーズで描かれています。左手の薬指にはめられている指輪やラテン語でラファエロの名前が彫られた腕輪から、彼の恋人だったといわれています。


《ホロフェルネスの首を斬るユーディット》1599年頃ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ

本作品は1599年頃に、バロックを代表する画家ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョによって描かれました。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョは、1571年にミラノで3人兄弟の長男として誕生しました。ペストの大流行により一家は1576年にミラノを離れますが、その翌年に父が亡くなり、母も1584年に亡くなってしまいます。13歳になったカラヴァッジョは、ミラノの画家シモーネ・ペテルツァーノに弟子入りし4年間修業しました。修行期間が終了してからもミラノ近辺にとどまり、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』などの貴重な作品やロンバルディア地方の絵画に親しみ、飾り気なくありのままを表現するドイツの自然主義絵画様式に惹かれていきます。

(Public Domain /‘The Martyrdom of St. Matthew’by Michelangelo Merisi da Caravaggio. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

1592年頃には役人と喧嘩をしたことによってミラノを飛び出し、ローマのジュゼッペ・チェーザリの工房で働き始めました。転機となったのは1599年、枢機卿デル・モンテの推薦で礼拝堂の室内装飾の依頼を受けて『聖マタイの殉教』と『聖マタイの召命』を描きます。この作品が大評判となり、カラヴァッジョは一躍スター画家の仲間入りを果たしました。

絵画の依頼は途切れず画家としては順調でしたが、すぐに喧嘩をしてしまう癖は治らず友人を刺殺してしまいます。ローマを追放されたカラヴァッジョはヨーロッパ各地を放浪しながら絵を描き続け、ときには大きな評価を受けることもありましたが、死を迎える直前までトラブルを起こし続けました。

本作品は、カラヴァッジオがスター画家として注目を集めるようになる直前に描かれました。未亡人ユーディットが、寝ているホロフェルネスを襲って首を切ったことにより国が救われた、という旧約聖書の一場面がドラマチックに描かれています。劇的な明暗表現が素晴らしく「光と陰の画家」と呼ばれるカラヴァッジオの真骨頂ともいえる作品です。

1:00-『タルクイニアの聖母』

《タルクイニアの聖母》1437年フィリッポ・リッピ

本作品は1437年に、初期ルネサンスを代表するフィレンツェ派の巨匠フィリッポ・リッピによって描かれました。

フィリッポ・リッピは1406年にフィレンツェの下町で生まれましたが、幼くして両親が亡くなり、孤児としてカルメル会修道院で育てられました。修道士として過ごす中で、ロレンツォ・モナコやマサッチオの影響を受けながら絵画を志すようになります。1452年にはプラートの大聖堂の壁画を手掛けており、現存しているこの壁画はリッピの代表作として知られています。1456年にサンタ・マルゲリータ修道院で知り合った修道女を、祭礼のどさくさで連れ帰って一緒に住むようになりましたが、これが大問題となり修道院から追放されました。しかし彼の絵を評価していたメディチ家の当主のはからいにより、教皇から正式に還俗の許可がおり正式な夫婦となりました。

『タルクイニアの聖母』はリッピの初期の代表作です。フィレンツェの大司教ジョヴァンニ・ヴィテレスキのための作品と考えられており、タルクイニアで発見されたことからこう呼ばれています。現実感のある空間表現・人体表現がなされた作品で、女性像の甘美な表現はリッピの特色となりました。

おわりに

パラッツォ・バルベリーニはローマでも有数のコレクションを誇る美術館です。また、バロック建築の宮殿から、長年住み続けたバルベリーニ家の暮らしに思いを馳せることもできることでしょう。イタリアを訪れた際には、是非一度立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

関連記事一覧