アントン・ウルリッヒ公爵美術館:ヨーロッパ最古の美術館の一つ

アントン・ウルリッヒ公爵美術館はニーダーザクセン州ブラウンシュヴァイクにある美術館で、1754年に創設されました。元々は、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公アントン・ウルリヒのコレクションがもとになって開館した美術館であり、フェルメールやルーカス・クラナッハ、アンソニー・ヴァン・ダイクといった画家たちの作品を所蔵しています。そんなアントン・ウルリッヒ公爵美術館の歴史とコレクションについて詳しく解説していきます。

■アントン・ウルリッヒ公爵美術館とは

(Public Domain /‘Anthony Ulrich, Duke of Brunswick-Wolfenbüttel’byHyacinthe Rigaud. Image viaWIKIMEDIA)

アントン・ウルリッヒ公爵美術館はニーダーザクセン州ブラウンシュヴァイクにある美術館で、1754年に創設されました。ブラウンシュヴァイクはニーダーザクセン州の代表的な都市で、州都ハノーファーに次ぐ規模を誇る都市です。ザクセン王ブルノ1世が開いたとされる集落と、伝説の貴族ダンクヴァルトが置いたとされる集落が合併して始まったといわれています。中世からは神聖ローマ皇帝と争ったハインリヒ獅子公の拠点になるなど、歴史的にも重要な役割を果たしてきました。第二次世界大戦の折にはイギリスの占領統治を受けることもありましたが、現在では工業化などで経済的発展を果たし、国際的にも高い評価を受ける都市となっています。

そんなブラウンシュヴァイクにあるアントン・ウルリッヒ公爵美術館は、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公アントン・ウルリヒのコレクションをきっかけに創設されました。アントンは、スペイン継承戦争でフランス王ルイ14世側につきましたが、ゲオルク・ルートヴィッヒの侵攻を受け、ヴォルフェンビュッテルからブラウンシュヴァイクに逃れました。このために廃位されることとなり、長く憂き目を見る生活が続きます。1704年に兄であるルドルフ・アウグストが亡くなると、アントンは単独統治者として務め、1714年には自身が立てたザルツダーラム宮殿で亡くなりました。

アントン・ウルリヒはドイツの歴史上重要な役割を果たした人物であり、その他にも学術と芸術の庇護者として知られていました。父親アウグスト2世の建てたアウグスト公爵図書館の蔵書を大幅に増やし、哲学者のゴットフリート・ライプニッツを司書に任命。また、ヨーロッパ初の黒人博士号取得者となったアントン・ヴィルヘルム・アーモの後援者としても知られています。こうした、多くの美術品のコレクションがもとになり、アントン・ウルリヒ公爵美術館が設立されました。

■アントン・ウルリッヒ公爵美術館のコレクション

アントン・ウルリッヒ公爵美術館はヨーロッパで最古の美術館の一つであり、ヨーロッパ絵画史における重要な作品を所蔵しています。特にクラナッハやホルバイン、レンブラントやピーテル・パウル・ルーベンスといった画家たちの作品が充実していることで知られており、印刷物も豊富なコレクションを誇っています。

そんなアントン・ウルリヒ公爵美術館のコレクションには、どのような作品が含まれているのでしょうか。主要な作品をご紹介します。

・《ワイングラスを持つ娘》1659〜1660年頃ヨハネス・フェルメール

(Public Domain /‘The girl with a wineglass.’byJohannes VermeerImage viaWIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1659〜1660年頃に制作された作品で、ネーデルランドを代表する画家ヨハネス・フェルメールによって描かれました。

フェルメールは1632年にネーデルランドのデルフトに生まれた画家です。父親のレイニエル・ヤンスゾーン・フォスは絹織物の職人、パブと居酒屋の経営、そして画商としても活躍する多彩な人物でした。フェルメールが画家を志すきっかけとなったのは、おそらくこのような父親からの影響が大きいと考えられています。父親が亡くなるとパブや画商としての仕事を引き継ぎ、1653年には身分の高い家柄の出身であったカタリーナ・ボルネスと結婚。この結婚はカトリックとプロテスタントという宗派の違いなどから母親の反対にあうものの、周囲の説得もあり結婚に至ります。

その後フェルメールは1653年に聖ルカ組合に親方として登録。画家としての一歩を踏み出すことになります。義母であったマリアが大変裕福であったため、純金と同じように高価であったウルトラマリンを作品に用いることができ、また寡作でも生計を立てることができました。しかし、ネーデルランドがフランス軍による侵攻を受け、内政が混乱すると、作品の依頼をする市民がほとんどいない状態になってしまいます。フェルメールは負債を解消するべく尽力しますが、生活は改善されず1675年に42歳または43歳という短い生涯を閉じました。その後フェルメールの名前は徐々に忘れ去られていき、19世紀になってその価値をまた見出されるようになりました。

本作品はそんなフェルメールによって描かれた作品で、二人の男性と、男性からワインを勧められる女性が描かれています。奥の男性は頬杖を突きまどろんでいるものの、前景に描かれた男性はワイングラスを女性に薦め、何かを企んでいるかのような意味ありげな表情を浮かべています。女性はそんな男性の視線に戸惑うかのようにこちらに顔を向けており、ワインを飲んでもいいものか迷っているかのように見えます。

男性の表情から女性を誘惑していることは容易に見て取れますが、テーブルに置かれた果物やステンドグラスに描かれた馬具、定規を持った女性の柄など、女性の貞節を促すモチーフが各所に描きこまれており、本作品が女性の貞節を扱った教訓画であることがわかります。

・《自画像》1500年ジョルジョーネ

(Public Domain /‘Self-portrait as David’byGiorgione. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1500年に描かれた作品で、西洋美術史においてもっとも謎に満ちた画家の一人であるといわれるジョルジョーネが描いた自画像です。

ジョルジョーネは1477年あるいは1478年にヴェネツィアから40kmほどのところにあるカステルフランコ・ヴェーネトに生まれ、おそらくジョバンニ・ベリーニのもとで修業したといわれています。芸術家列伝を著したジョルジョ・ヴァザーリによれば1500年にヴェネツィア元首であったアゴスティーノ・バルバリーコと傭兵隊長コンサルヴォ・フェランテの肖像画を描く画家に選ばれたとされており、若い時から画家として認められていたことが分かっています。

1504年には生まれ故郷のカステルフランコの聖堂から傭兵隊長マッテーオ・コスタンツォをたたえるための祭壇画の制作を、また1507年にはヴェネツィア共和国の十人委員会からドゥカーレ宮殿大ホールの装飾絵画を依頼され画家として順調な日々を過ごしていましたが、1510年に腺ペストに感染、10月には亡くなったといわれています。

そんなジョルジョーネによって描かれた本作品は、ジョルジョーネ自身を描いたとされる自画像であり、黒の背景に緑のベストと赤いショールを羽織った画家自身が描かれています。ジョルジョーネは眉間にしわを寄せ、軽く顎をあげた姿で描かれており、どこかメランコリックな雰囲気を醸し出しています。ジョルジョーネは本作品を制作したあと、わずか10年後に亡くなることになりますが、どのような思いでこの自画像を描いていたのでしょうか。

■おわりに

アントン・ウルリッヒ公爵美術館はヨーロッパでも最古の美術館の一つであり、ヨーロッパ絵画史に残る傑作を所蔵していることでも知られています。ベルリンなどドイツの主要な都市からアクセスも良いので、ドイツを訪れた際にはぜひ足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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