ブレーメン美術館:14世紀から現代までの芸術作品を所蔵する美術館

ブレーメン美術館はドイツのブレーメンにある美術館で、1849年に開館しました。14世紀から現代までのヨーロッパ絵画に加え、彫刻作品やメディア作品も所蔵していることで知られており、特に15世紀から20世紀にかけての版画・素描作品約22万点というヨーロッパ最大級のコレクションが有名です。そんなブレーメン美術館の歴史とコレクションについて詳しく解説していきます。

■ブレーメン美術館とは

ブレーメン美術館はドイツのブレーメンにある美術館で、1849年に開館しました。ブレーメンはドイツの大都市の一つで、古くは8世紀から交易の要所として重要視されてきました。1260年には都市ハンザが形成され、1358年にはハンザ同盟に加盟。これをきっかけとして徐々に商業が栄えるようになっていきました。西部地区には造船所や飛行機工場があったため、第二次世界大戦の折には何度も空爆目標とされ壊滅的な被害を受けますが、イギリス管理地内にあるアメリカ管理区域の飛び地になったのちには、1949年にドイツ連邦共和国の都市州となります。

そんなブレーメンにあるブレーメン美術館は、1823年に34人の実業家たちが発足させた芸術協会が発端となって開館しました。当初は参加者限定の展覧会を行っていましたが、入場券の売り上げや寄付をもとに作品を収集するうちに徐々にコレクションは拡大していき、1843年以降はハノーファーやリューベック、シュトゥットガルトといった近隣都市の芸術協会と共同して大規模の展覧会を開催するまでになっていました。

その後コレクションの拡大に伴い、新しい美術館を建設する必要性が生じます。1847年には旧市街近くのごみ集積場であった土地が選ばれ、1849年に中央にアーチのある2階建ての建物が完成。さらにその後も拡張工事が行われ、美術館は拡大していきます。

しかし、第二次世界大戦の際、ブレーメン美術館は甚大な被害を受けることとなります。コレクションは地下室に運ばれていたものの、空襲によって中央階段と2階の一部分が破壊されてしまいます。この際エマヌエル・ロイツェの《デラウェア川を渡るワシントン》が焼失しています。

(Public Domain /‘Washington Crossing the Delaware’byEmanuelLeutze. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

この空襲の後、コレクションの大半は各地の城に移送されることとなりました。しかし、戦後ソ連軍によって略奪されてしまったため、コレクションの中にはいまだ行方不明になっている作品が1500点以上存在します。建物は修復工事が行われ、1951年にようやくすべての部屋が使用可能になり、現在に至ります。

■ブレーメン美術館のコレクション

ブレーメン美術館のコレクションは14世紀から現代までの西ヨーロッパの作品で構成されており、特に19世紀から20世紀にかけてのフランスやドイツの作品が充実しています。特にポール・セザンヌやエドゥアール・マネ、クロード・モネ、マックス・ベックマン、パウラ・モーダーゾーン=ベッカーについては代表作を所蔵しており、研究者たちの高い関心を集めています。

そんなブレーメン美術館のコレクションには、どのような作品が含まれているのでしょうか。主要な作品をご紹介します。

・《花のバスケット》1863年ギュスターヴ・クールベ

(Public Domain /‘Blumenschale’byGustave Courbet. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1863年に制作された作品で、写実主義を代表する画家ギュスターヴ・クールベによって描かれました。

ギュスターヴ・クールベは1819年にスイス国境に近いフランシュ・コンテ地方の山中の村、オルナンに生まれました。生家は裕福な農家であり、1831年になると地元のカトリック系中学校に入学。その後パリに居を移し、スチューベンやヘッセのアトリエで絵を描き始めるものの、その生活はクールベの意欲を満たすものではなく、ルーブル美術館に通ってはフランスやスペインの巨匠たちの作品を模倣するという生活を送ることになります。

1848年には《オルナンの夕食後》がはじめてサロンで入選。クールベは金メダルを受賞し、フランス政府による買い上げ作品となります。この1848年はマルクスとエンゲルスによる「共産党宣言」が刊行され、社会主義や共産主義が誕生し、貧困や社会的不平等についての問題意識が表面化した時代でもありました。現実をありのままに描くクールベの作品は、こうした時代の風潮を受けて次第に評価されるようになっていきます。1849年から1850年までに制作された《石割人夫》は、貧困に耐え労働に励む農民の姿を美化せず描くことで、そのままのリアリズムを強調した作品となりました。

1870年になると普仏戦争が勃発。フランスが敗北すると、3月26日にパリ・コミューンと呼ばれる革命政府が蜂起し、クールベも議員として選出されました。しかし、5月28日にはフランス軍によってパリ・コミューンは鎮圧され、クールベも逮捕されてしまいます。1872年には懲役刑を終えたものの、ヴァンドーム広場の問題に巻き込まれていたクールベは破産を逃れるためにスイスに亡命します。1877年12月31日には肝臓病が原因で死去。58歳で、その激動の生涯を閉じることになります。

作品は生き生きとした花が生けられたバスケットを描いたもので、クールベのパトロンであったエティエンヌ・ボードリーによる恵まれた環境のもと、サントで描かれたものと考えられています。このため、他のクールベ作品ではなじみのないマグノリアやデイリリーなどの花も多数描かれています。

・《冬の日、正午の少し前》1922年パウル・クレー

本作品は1922年に制作された作品で、20世紀のさまざまな芸術様式に影響を与えた画家パウル・クレーによって描かれた作品です。

パウル・クレーは1879年、スイスの首都ベルン近郊のミュンヘンブーフゼーに生まれた画家です。両親はクレーが音楽家になることを望んでいましたが、クレー自身は現代音楽に興味を見いだせず、絵画芸術に進むことを選択します。1898年にはミュンヘンの美術アカデミーに入学、象徴主義の画家フランツ・フォン・シュトゥックやハインリッヒ・ナイヤーのもとで学んだのちは、友人と共にイタリアに移り、ローマ、フィレンツェ、ナポリに滞在、古典巨匠の作品を研究するようになっていきました。

1911年になるとアウグスト・マッケやワシリー・カンディンスキーと出会い、冬には前衛芸術運動「青騎士」に参加。表現主義の画家たちと切磋琢磨する環境に身を置くことで、新しい表現を見出していきました。1914年になるとクレーはチュニジアを訪問し、そこで目にした鮮やかな色彩は作品に大きな影響を与えました。

1921年から1931年まではヴァルター・グロピウスの招聘を受け、バウハウスで教鞭をとっていました。しかし、1933年にナチス政権が成立すると、前衛芸術は弾圧されるようになったため、クレーは一家で生まれ故郷のスイス・ベルンに亡命します。亡命後も制作活動を続け、1940年には60歳の生涯を閉じました。

そんなクレーによって描かれた本作品は、クレーがバウハウスで教鞭をとっていた時代に描かれたものであり、油彩転写によって描かれた作品です。一見子供が描いた絵のような柔らかい印象を受けますが、「運命」という重いテーマのもと制作された作品と考えられています。

■おわりに

ブレーメン美術館はヨーロッパでも有数のコレクションを所蔵している美術館であり、特にフランス・ドイツの作品は一見の価値があるといえるでしょう。ドイツを訪れた際には、ぜひ足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

Official Website:http://www.kunsthalle-bremen.de/de

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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