ライプツィヒ造形美術館:ドイツ近代絵画史の傑作を所蔵する美術館

ライプツィヒ造形美術館はドイツのザクセン州、ライプツィヒにある美術館で、1848年に開館しました。カスパー・ダーヴィト・フリードリヒやルーカス・クラナッハなどドイツ絵画史を彩る画家たちの作品を所蔵していることで知られており、特にマックス・クリンガーのコレクションには定評があります。そんなライプツィヒ造形美術館の歴史とコレクションについて詳しく解説していきます。

■ライプツィヒ造形美術館とは

ライプツィヒ造形美術館はドイツのライプツィヒにある美術館で、1858年に開館しました。ライプツィヒは人口59万人、ザクセン州では州都ドレスデンを上回る最大の都市であり、バッハやメンデルスゾーン、そしてワーグナーなどドイツを代表する音楽家を輩出したことでも知られています。また、東西ドイツ統一のきっかけとなった住民運動の発祥地としても知られており、歴史的にも非常に重要な役割を果たしてきました。

そんなライプツィヒにあるライプツィヒ造形美術館は、1837年にライプツィヒの美術コレクターたちが「ライプツィヒ美術協会」を設立したことを発端としています。ライプツィヒ美術協会は美術館を設立することを目標としていました。1848年12月10日には公立学校を設立し、約100枚の作品を寄贈。この最初の作品らをはじめとしてコレクターたちから作品が寄贈されたことにより、徐々にコレクションは充実していきました。

しかし、ナチス政権下では美術館が所蔵していた作品は退廃芸術と見なされるようになり、ついに1937年に394枚の作品を没収されてしまいます。ナチスは歴史や伝説を描くロマン主義や、見たものをありのままに描く写実主義を好ましいものとしており、こうした作品を集めて「大ドイツ芸術展」にて展示し、公認美術として認定していました。その一方で、近代美術はユダヤ人やスラブ人といったナチスの見方では「東方の人種的に劣った血統」の芸術家たちが描いた有害な作品、すなわち「退廃芸術」とされており、近代芸術の芸術家たちは不当な弾圧を受けることとなってしまうのです。

こうした際に行われたのが、「退廃芸術展」でした。ドイツ全国の美術館から集められた近代美術の作品は「退廃芸術展」としてドイツ各地を巡回することとなり、こうした状況を重く見た芸術家たちはその多くがドイツ国外に亡命。これをきっかけとして、ドイツの近代美術は長い低迷の時代に入ることになります。

1943年12月4日にはイギリスの空襲により、美術館の建物が破壊されてしまいます。コレクションは安全に保管されていたものの、戦後復興における美術館の修復は大変難しいものでした。1997年にライプツィヒ連邦行政裁判所の移転によってハンデルスホーフに一時的に移動させられることになり、1990年半ばには再度美術館建設のプロジェクトが立ち上がります。2004年には旧ザクセン広場に再オープンし、現在にいたっています。

■ライプツィヒ造形美術館のコレクション

ライプツィヒ造形美術館のコレクションは約4600点の絵画、約1800点の彫刻などからなるものであり、ドイツやオランダ、イタリア、フランスなどヨーロッパ諸国の傑作を所蔵しています。特にフランス・ハルスやルーカス・クラナッハ、ドイツロマン派の巨匠カスパー・フリードリヒ、マックス・クリンガーの作品が充実しています。

そんなライプツィヒ造形美術館のコレクションには、どのような作品が含まれているのでしょうか。主要な作品をご紹介します。

・《人生の諸段階》1835年頃カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ

(Public Domain /‘The life stages’byCaspar David Friedrich. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1835年頃に制作された作品で、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒによって描かれました。

本作品は1835年頃に制作された作品で、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒによって描かれました。カスパー・ダーヴィト・フリードリヒは1774年、スウェーデンのグライフスヴァルトに生まれた画家です。10人兄弟の大家族ではあったものの、母親や姉二人、そして末っ子を事故で亡くすなど、幼いころのフリードリヒのまわりには常に「死」が存在しました。このことがその後のフリードリヒの作風に影響を与えたといわれています。

1794年になると、コペンハーゲンの美術アカデミーに入学。その後はドレスデンの美術アカデミーにも入学します。1805年になるとヴァイマール美術展で初めて賞を受賞し、《海辺の修道士》や《樫の森の中の修道院》はプロイセン王室買い上げになったことから、フリードリヒの画家としての評価は確固としたものになっていきました。しかし、1820年を過ぎるとロマン主義はもはや古い表現と見直されるようになり、1935年には脳卒中で倒れたことで制作ができなくなってしまいます。1840年にはドレスデンにおいて、65歳で死去。そのころにはフリードリヒの名前を憶えている者はほとんどいなかったといわれています。

本作品はそんなフリードリヒによって描かれた作品で、5艘の船が遠くの水平線に向かって進んでいく様子が描かれています。手前にはふたりの子どもと世話をする若い女性、コートを着た男性と杖を持った老人が描かれており、これらは人生の幼年期から老年期までを表しているといわれています。

フリードリヒ作品によくみられるように、空は青からオレンジへと徐々に変化しており、夕方の時間帯を描いているものと考えられます。このグラデーションは人生という壮大なテーマを表現した本作品をドラマチックに、非常に印象的なものにしています。

・《死の島》1886年アルノルト・ベックリン

(Public Domain /‘Die ToteninselbyArnold Böcklin. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1886年に制作された作品で、19世紀象徴主義を代表する画家アルノルト・ベックリンによって描かれた作品です。

アルノルト・ベックリンは1827年にスイスのバーゼルに生まれた画家です。デュッセルドルフ大学に入学し、画家のヨハン・ウィルヘルム・シルマーの下で学んだのち、師のすすめでフラマン絵画やオランダ黄金時代の絵画作品を模写しながら、画力を高めていったと言われています。

その後兵役に就くことになるものの、1850年にはローマに向かい、遺跡やルネサンスの巨匠たちの作品に刺激を受けながら技法を学びます。そしてヨーロッパ各地を転々としながら様々な絵を描き続け、1901年にはイタリアのフィエゾーレでチフスに罹り死去。73歳の生涯を閉じました。

本作品はベックリンが1886年に制作した作品で、同じモチーフの作品が5点製作された中、現在は4点の作品が現存しています。ベックリンのパトロンであったアレクサンダー・ギュンターの依頼で制作された作品であり、制作にあたってはイタリアのフィレンツェにあるイギリス人墓地を参考にしたのではないかとも言われています。

暗く広い水辺に浮かぶ荒れ果てた岩の島に小さな船が到着した様子が描かれており、線上には船を操縦する人物と白装束の人物が描かれています。その神秘的で幻想的な雰囲気からか、第一次世界大戦後のドイツで非常に人気になりました。アドルフ・ヒトラーもベックリンの作品を好んで収集しており、《死の鳥》の第3作をはじめ、11点所有していたといわれています。

■おわりに

ライプツィヒ造形美術館は、ドイツ近代美術の傑作を所蔵する美術館です。退廃芸術の被害にあったという点では、歴史の目撃者とも言えるでしょう。ライプツィヒは美術の他に、音楽にもゆかりがある街です。芸術に高い関心のある方は、ぜひ足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

Official Website:https://mdbk.de/

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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