カンボジア:シェムリアップ郊外の遺跡を巡る

カンボジアの世界遺産アンコール遺跡群には、かの有名なアンコールワットの他にも700以上の建造物が含まれています。中でも、シェムリアップ北東部の郊外に点在する遺跡は、アンコールワットよりも前に建てられたものが多く、アンコール王朝の歴史を順々に辿りたい方には必見のスポットです。ここでは世界遺産に登録されているプリアヴィヒア遺跡を含め、シェムリアップ郊外に位置する5つの遺跡を巡っていきます。

カンボジアの代名詞とも言える世界遺産アンコール遺跡群

700以上の建造物を含む遺跡群の中でも、12世紀初頭に現在のシェムリアップ中心部に建立されたアンコールワットはとても有名ですが、アンコール王朝自体は9世紀初頭に始まっていたとされています。

アンコールワットができるまでの数世紀の間にも、歴代の王たちによって様々な寺院や宮殿が建てられており、シェムリアップの北東部にはアンコールワット以前の王朝の様子を偲ばせる遺跡群が点在しています。王朝後期に造られた遺跡とは異なる性質の立地、構造、材質を持つ遺跡群は見応え十分で、そこで見られる彫刻の数々は当時の信仰のあり方を映し出しています。

アンコールワットに結実するアンコール王朝の軌跡を探りに、シェムリアップ郊外の遺跡を辿ってみましょう。

アンコール王朝が幕開けた聖なる山:プノンクーレン

はじめにご紹介するのは、シェムリアップ中心部から北東に約50km離れたところに位置する標高500m弱のプノンクーレン聖山です。

写真:筆者提供

現在のカンボジアが当時ジャワ人の宗主下に置かれていた802年にジャヤヴァルマン2世がジャワ人からの独立を宣言し、神の化身である王として即位したのがプノンクーレンだと言われています。

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進んでいくと、ひんやりとして透き通った空気の中、時折天高くから聞こえるスーンという鳥のさえずりが響く神秘的な世界へとつながっています。

プノンクーレンの見どころは、なんと言っても聖水でしょう。大小2つの滝では全身に水を浴び、体を清める人々の姿と歴史の跡を見ることができます。

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川底にはヒンドゥー教の神々を祀る数々の彫像があります。これは肘をついて横たわるヴィシュヌ神と、蓮の花の上で瞑想をするブラフマー神を描いた浮き彫りです。

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また破壊と創造を司るシヴァ神の象徴であったリンガが所狭し並ぶ「千本リンガ」と呼ばれる彫刻も見ることができます。

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豊穣のシンボルとして男性器を象ったリンガですが、なぜこれほどまで多く川の中に彫られたのでしょうか。様々な言い伝えのある中、一説ではリンガの上を流れた水は清められると言われていたそうです。

川底の彫刻は水量によって見え方がまったく異なり、雨季の始まり(5〜6月頃)または終わり(11月頃)に大雨後を避けて訪れると、水面下から彫刻がうっすらと見え、より神秘的な光景を楽しめるでしょう。

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千本リンガから500mほど離れた巨大砂岩の上に設置された祠堂には、16世紀に作られたという涅槃仏も見ることができます。

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アンコール王朝発祥の地として地元の人々から今もなお神聖視され、休日になると多くの参拝客が訪れるプノンクーレン。約600年続くアンコール王朝の創設が、ここで高らかに宣言されたことを思うと、なんとも厳かな心持ちになるものです。

大農業王国アンコールに水を行き渡らせた源流:クバールスピアン

プノンクーレンから約30kmのところにあるクバールスピアンは、アンコールワット建立から1世紀ほど前の11世紀初頭に開かれたとされている聖地です。クバールスピアン(「頭の橋」という意味)という名が示す通り、シェムリアップ川の源流にそれは位置しています。

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ここではインドの神話をモチーフにした彫刻を見ることができます。

シェムリアップ川はガンジス川に例えられており、それと同様プノンクーレンはヒマラヤ山脈、トンレサップ湖はインド洋に該当すると言われています。

ゴツゴツとした大きな砂岩と樹木がうっそうと生い茂る山道を抜け出すと標高約200mの山頂へ辿り着きます。

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山頂に到着し、川に沿って歩いていくと、ヒンドゥー教の神々を祀った彫刻が至るところに現れます。水辺の石の側面には横たわるヴィシュヌ神と蓮の花で瞑想するブラフマー神が描かれています。

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ここでも、神々の浮き彫りが綺麗に残されています。

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プノンクーレン同様、クバールスピアンにも1000本リンガが健在し様々な形状のリンガがびっしりと彫られています。

写真:筆者提供
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1000年近く水にさらされながらも、見事に原型を留めていることに驚くばかりです。

農業大国だったアンコール王朝においては、「水を治める者は国を治める」というフレーズが相応しいほど、水は王朝発展の要でした。

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川底に彫られた神々たちによって清められた水を見ていると、心身が透き通るような感覚を覚えます。

装飾美を極めた至高のクメール建築美術:バンテアイスレイ

アンコール遺跡群の中でも異彩を放つ赤い砂岩とラテライトで造られたバンテアイスレイは、967年に建造されたヒンドゥー教寺院です。

写真:筆者提供

王が自らの権力を神格化するために作られた寺院が多い中、バンテアイスレイは当時の王朝摂政役であったヤジャニャヴァラーハによって建てられた菩提寺であると言われています。

中央祠堂へと向かう途中にアンコールワットのような高低差はなく、平坦な直線上に次々と塔門が現れていく様子に、最終地点への期待感が高まります。

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塔門の破風や祠堂壁面に刻まれた、繊細この上ないレリーフは保存状態がよく、今も細部まで綺麗に残っており、息をのむほどの美しさを放っています。

門の破風に描かれているのは、ヒンドゥー教の神話に基づく数々のシーンです。カイラス山で瞑想をするシヴァ神と、瞑想を妨害しようとしている魔王ラーヴァナが彫り出された破風には、取り巻く動物たちも鮮やかに描かれています。

写真:筆者提供
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「女の砦」という意味を持つバンテアイスレイ。
「東洋のモナリザ」と呼ばれる柔和で美しいデバター(女官や踊り子をモデルにした女神像)を一目見ようと訪れる方も少なくありません。

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くっきりと浮かび上がる深い彫りから現れる、女性らしいまろやかさに溢れた曲線美と穏やかな微笑みはフランスの作家であり、アンコール遺跡を舞台にした小説『王道』の作者であるアンドレ・マルローが盗掘しようとしたことで有名なデバター像です。目に焼き付けるだけでは飽き足らず、なんとしても自分のものにしたいと渇望させるほどの魅力があったということでしょう。

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寺院全体が珠玉の芸術作品と言ってもよいほど見応え十分のバンテアイスレイではアンコール時代の感性、職人技を存分に堪能できます。

うら悲しくも強烈に古き栄華を物語る場所:ベンメリア

アンコールワットから東に約50km離れたところに位置するベンメリアは、アンコールワットより少し早い11世紀末〜12世紀初頭に、ヒンドゥー教寺院として建造されました。小規模ながら、アンコールワットと構造上の類似点があるため、「東のアンコール」とも呼ばれています。

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アンコールワットと大きく違うところは、荒廃したまま修復がなされず保管されているところです。

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バラバラと崩れた緑一色の石は堆積した苔によって途方もなく長い歳月の経過を感じさせます。

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意図を持って積み上げられたものが、意図をもって破壊される。無造作に散らばった石片は、この場所で様々な力の興亡があったことを物語っているようです。

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空中に設置された木板の通路を歩きながら進んでいくと荒廃した遺跡に包まれ、自分が歴史的遺産の中心に立っているという感覚を強く得ることができます。

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かつて寺院の中にいた人々の様々な想いを伝えているようにも見える崩れ落ちた石の山からは、破壊されたものから凄まじいまでの生命力を感じ、そこに人間の様々な営みの痕跡を見て取ることができます。

天高くそびえ立つ気高き寺院:プリアヴィヒア

アンコール遺跡群には含まれず、単独でユネスコの世界文化遺産に登録されているプリアヴィヒアはカンボジア北端の山岳地帯に位置する寺院です。

写真:筆者提供

標高約600mのダンレック山の斜面にそびえ立つ遺跡は「天空の寺院」という異名を持ち、創建時にはシヴァ神を祀っていたヒンドゥー教寺院でした。アンコール王朝初期の9世紀末に建造された建物は何度か増改築が施され、現存するものに近い形になったのは11〜12世紀にかけてだと言われています。各年代の特徴的な建築様式がミックスされているのが魅力的です。

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東西を基軸とすることが多い他の寺院とは異なりこの南北基軸上に配置された伽藍にはどんな物語があったのでしょうか。第一塔門は2000リエル札に描かれていることで有名です。

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内戦中はポル・ポト軍の占領地となっていましたが、2008年にユネスコの世界遺産に認定されました。その後、領有権をめぐって隣国タイと軍事衝突があり、長らく危険地帯になっていましたが、現在では争いが収束し観光客が多数訪れるようになっています。

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ヒンドゥー教衰退後には仏教寺院となっており、終点の第五塔門奥にある祠堂には熱心に参拝する地元の人々の姿がみられます。

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プリアヴィヒア最大の見どころは、山頂から見下ろす絶景です。

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断崖絶壁から見える、ただただ雄大な大地から大いなる宇宙の中で確かに生きている「私」という小さな存在を実感し、噛みしめることができるでしょう。

神のようにすべてを見渡せるような気分にもなれる山の頂で当時の王は、何を思い、神々とどのような対話をしていたのでしょうか。

アンコールワットに至る王朝の歴史を体感しよう

写真:筆者提供

清らかな水中に刻まれた数えきれないほどのリンガと小ぶりな伽藍の中に、完璧なまでの繊細さでびっしりと彫り込まれた神々のストーリーは苔に覆われた瓦礫が物語る、強靭でありながらも儚い人間の創造力と、思わず手を伸ばして触れてみたくなる世界があります。

これらの遺跡が伝えてくれるのは、アンコールワットのような壮大な寺院が突如現れたわけではなく、アンコールワットの完成以前にも神々を祀り、神々に近づき、神々と交わろうとする数々の試みがなされてきたのだということを実感させられます。

神々と無数の人間の魂が行き交ったアンコール王朝の足跡を辿りに、シェムリアップ郊外まで足を伸ばしてみてください。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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