シュトゥットガルト州立美術館:中世から20世紀の巨匠・有名作家の作品を多く所蔵する美術館

シュトゥットガルト州立美術館はドイツ・シュトゥットガルトにある美術館で1843年に設立されました。中世~20世紀の作品を時代ごとに分けて展示しており、その所蔵数は約5000点を誇ります。また、旧館・新館の建物のテイストが全く違うため、建築物としても楽しみながら館内を巡ることができるでしょう。そんなシュトゥットガルト州立美術館の歴史と所蔵品について詳しく解説していきます。

■シュトゥットガルト州立美術館とは

シュトゥットガルト州立美術館はドイツ・シュトゥットガルトの中心部にある美術館です。建物は1843年建設の旧館と1984年建設の新館に分かれています。旧館は古典主義の建築物で美術学校としての役割も果たしていましたが、第二次世界大戦で破壊されてしまいます。戦後に再建がすすみ、1948年に再オープンしました。

新館を手掛けたのはイギリスを代表する建築家ジェームズ・スターリングです。旧館のすぐ隣に建設されましたが、その近代的なデザインは旧館の佇まいとあまりにかけ離れていたため賛否が分かれました。

現在、美術品は時代ごとに旧館・新館に分けて展示してあり、特別展を合わせると常時数百点を鑑賞することが出来ます。

■シュトゥットガルト州立美術館の所蔵品

シュトゥットガルト州立美術館では中世から20世紀にかけて活躍した美術家の作品約5000点を所蔵しています。

旧館は主に中世~19世紀のドイツ・イタリア・オランダの絵画作品が中心で、巨匠と呼ばれる作家の作品を多数集めました。
新館の展示物はピカソ・アンディウォーホールなど20世紀に活躍した作家をピックアップしています。

そんなシュトゥットガルト州立美術館の所蔵品の中から主要な3作品をご紹介します。

・《しゃがむ女》1902年~1903年パブロ・ピカソ

本作品は1902年~1903年に制作されたもので、キュビスムの創始者であり20世紀を代表する芸術家・パブロ・ピカソによって描かれました。


(Public Domain /‘Pablo Picasso 1962’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

パブロ・ピカソはスペイン南部のマラガ市で1881年に生まれました。父が美術教師だったこともあり、幼少期からドローイングや油絵に親しみます。一家はラ・コルーニャ、バルセロナと移り住み、ピカソはゆく先々で美術学校に入学しました。しかし、学校で学んだからといって絵画の才能には直結しないことに気付き中退します。その後は名画の模写を繰り返すことで技術を習得していきました。

その後のピカソは、モダニズム時代(1899年~)・青の時代(1901年~)・ばら色の時代(1904年~)・アフリカ彫刻の時代(1907年~)・キュビスムの時代(1909年~)・新古典主義時代(1917年頃~)・シュルレアリスム時代(1925年頃~)と、次々に画風や色合いを変化させながら作品を生み出していきます。

しかし、第二次世界大戦が始まるとピカソが滞在していたパリもナチスの占領下となり、作品を展示できなくなりました。そのため、ピカソは絵画や彫刻の代わりに300以上の詩を制作するようになります。

1950年代になるとピカソの創作スタイルは再び変化し、巨匠と呼ばれる作家のオマージュ作品を数多く制作します。その後も1973年に亡くなるまで様々なスタイル・表現方法に挑戦し続けました。92年の生涯のなかで残した作品は絵画約1万3500点・版画約10満点・挿絵約3万点・彫刻と陶器が約300点もあり、多作な芸術家としてギネスにも登録されています。

・《母の肖像》1893年ポール・ゴーギャン

(Public Domain /‘La Mère de l’artiste’by Paul Gauguin. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1893年に制作された作品で、フランスのポスト印象派の代表画家ポール・ゴーギャンによって描かれました。

(Public Domain /‘Paul Gauguin Wearing a Breton Jacket’by Louis-Maurice Boutet de Monvel. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ポール・ゴーギャンは1848年にフランス・パリで生まれました。ポールが3歳の頃にナポレオン3世のクーデターが勃発し、共和主義者のジャーナリストであった父親は職を失います。一家は親戚を頼って南米に移住しようとしますが、航海中に父親は急死しました。その後4年間南米で暮らし、パリに戻ってきたのは1855年頃のことでした。ポールは寄宿学校を卒業したのち、商船の水先人見習い・兵役・株式仲買人と職を転々とします。株式仲買人としては成功を収め、1873年には結婚して5人の子どもに恵まれました。

ポールが絵を描くようになったのは25歳の頃で、歴史的な画家たちの中でも遅いスタートだといえます。カミーユ・ピサロと知り合ってからは彼を通じて多くの印象派の画家と交流をもつようになりました。1876年に作品がはじめて入選を果たしてからはさらに絵にのめりこみ、1882年の株式大暴落で収入が激減したことから画業で暮らしていこうと決心します。しかし、画家として生計を立てることは難しく、節約のためにブルターニュ地方のポン=タヴァンに住んだりパナマに滞在中に破産したりと生涯お金には恵まれませんでした。

1888年には南仏のアルルでフィンセント・ファン・ゴッホと共同生活を送りましたが、ゴッホが耳を切る事件がきっかけとなり、ポールはアルルを離れタヒチに渡ります。そこでプリミティヴィズム(原始主義)の制作スタイルを確立させ、野性味あふれる作品を精力的に描き続けました。ポールがパナマやタヒチで出会った原始的な文化は彼の創造力の源となり、のちの前衛芸術家たちに大きな影響を与えます。

この作品はポールが自分の母親をモチーフに描いたものですが、どことなく南国の雰囲気がただよう画風が特徴的です。また、画面上の母親が若々しいことから、幼少期の記憶に存在する母親像を表現しているとも言われています。

・《小さな青い馬》1911年フランツ・マルク

(Public Domain /‘The Little Blue Horses’by Franz Marc. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ドイツ表現主義の画家フランツ・マルクによって1911年に描かれた作品です。

(Public Domain /‘Franz Marc, 1910’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

フランツ・マルクはドイツ・ミュンヘンで風景画家の息子として生まれました。幼少期は父親から絵を学んでいましたが、厳しい指導が辛く、次第に心を閉ざすようになります。やがて兵役に招集されたマルクは、馬術訓練で初めて馬に乗り動物の生命力や自由な姿に感動を覚えました。動物を描きたいと思ったマルクは1900年に美術学校に入学しますが、学校のカリキュラムでは満足できず中退して一人で制作活動を始めます。

1903年からパリに滞在するようになると、フィンセント・ファン・ゴッホの絵に影響を受けパワーあふれる自由な画風に変化していきます。マルクは動物に豊かな色彩を与え、自分の感情を自由自在に表現しました。結婚したときには優しく明るい色合いの黄色をつかい、ヨーロッパの情勢に不安を感じたときには色が入り乱れ苦悩するさまを描いています。戦争に憤りながらも世界の再生を願う作品「戦うフォルム」を描きましたが、第一次大戦が始まるとマルクは招集され36歳の若さで戦死しました。

本作品に登場する「青い馬」はマルクが何度も描いたモチーフで、男性的な強さをもって生きていくという決意の表れと評されています。

■おわりに

シュトゥットガルト州立美術館はドイツ・シュトゥットガルトにある美術館です。ピカソ・アンディウォーホールなど誰もが耳にしたことのある有名作家の作品もあり、美術に詳しくない方も楽しめるはずです。是非訪れてみてはいかがでしょうか。

Website : https://www.staatsgalerie.de/en.html

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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