国立ロシア美術館: 全世代のロシア美術を堪能することができるロシア初の国立美術館

サンクトペテルブルクにある国立ロシア美術館は、皇帝ニコライ2世の勅令により1898年にロシア美術専門の美術館として開館しました。本館であるミハイロフスキー宮殿は、19世紀初頭のロシア新古典主義建築の傑作とも言われています。所蔵品は約40万点にも及び、イコン画から現代ロシア美術までを網羅しています。今回はそんな国立ロシア美術館の歴史と所蔵品について詳しく解説していきます。

■国立ロシア美術館とは

1895年、ロシア皇帝ニコライ2世は、先帝であり父であったアレクサンドル3世を記念して、ミハイロフスキー宮殿を新たな美術館とする勅令を発布します。ミハイロフスキー宮殿は建築家のウラジーミル・スヴィニインによって美術館へと改修され、1898年にロシア最初の国立美術館として開館しました。現在ロシアの美術館中最大のコレクションを持つとされていますが、最初のコレクションはエルミタージュ美術館やアレクサンドロフスキー宮殿、ロシア帝国美術アカデミーの所蔵品から移動させられました。1917年のロシア革命後は多くの個人蔵のコレクションが国有財産となり、ロシア美術館の所蔵品となっています。

■国立ロシア美術館の所蔵品

国立ロシア美術館の貯蔵品はロシア人画家による美術品に特化していることが特徴で、世界で最も多くのロシア美術作品を収蔵しています。彫刻、小美術品、絵画、イコン、デッサンなどのコレクションを有しており、その数およそ40万点。イコン画から20世紀のロシア・アヴァンギャルドの豊富なコレクションまでを一度に鑑賞することができ、ロシア美術の歴史と魅力を知ることができます。

そんな国立ロシア美術館コレクションには、どのような作品が含まれているのでしょうか。主要な作品をご紹介します。

・《ポンペイ最後の日》 1830年-1833年 カール・ブリューロフ 

(Public Domain /‘The Last Day of Pompeii’ by Karl Bryullov. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

この作品はロシア人で初めて国際的に名を馳せた画家、カール・ブリューロフによって制作されました。大きなキャンバスに描かれた、迫力満点の作品です。

(Public Domain /‘Self-portrait’ by Karl Bryullov. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

カール・ブリューロフはバルト海に面したロシアの港湾都市ペテルブルクに生まれました。幼年時代からアカデミーで教育を受け、1822年に念願であったイタリアに渡ります。そこで制作したこの《ポンペイ最期の日》が評判を呼び、ローマ、ミラノ、パリにて大成功を収めます。ヨーロッパで名を馳せた後、ロシアへ帰国した彼には帝立芸術アカデミーでの高い地位が用意されていました。晩年にはまたイタリアへと移り、ローマでその生涯の幕を閉じました。

この作品では、イタリア南部のカンパニア州にある広大な遺跡、ポンペイで起きた災禍を描いています。ポンペイはナポリの南東22kmにあり、当時は海に面した活気ある港町でした。その立地から交易に適し、ポンペイ商人は地中海を中心に物品を売買していたといいます。しかし、西暦 79年8月24日の午後1時頃にヴェスヴィオ山が大噴火し、麓にあったポンペイの街は一瞬で大量の火山灰と軽石に埋もれました。作者のカール・ブリューロフは、製作にあたって現地の廃墟を見学、歴史文献をよく読み研究し、この作品を描き上げました。発表後、この作品は大きな評判を呼び、初めにエルミタージュ美術館で展示され、そしてパリやミラノで展示された後、ロシア皇帝ニコライ1世に贈られました。19世紀末にサンクトペテルブルクにあるロシア美術館に移されました。

・《第九の怒涛》 1850年 イヴァン・アイヴァゾフスキー

(Public Domain /‘The Ninth Wave’ by Hovhannes Aivazovsky. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

19世紀ウクライナ生れの帝政ロシアの海洋画家、イヴァン・アイヴァゾフスキーの代表作です。多くの風景画を残していますが特に海洋画が有名で、ロシア海軍から長年にわたって作品を委嘱されていました。

(Public Domain /‘Self-portrait’ by Ivan Aivazovsky. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

イワン・アイヴァゾフスキーはクリミア半島の港町フェオドシヤに生まれました。貧しい家の元に育ちますが、画才に恵まれ援助金を受け、首都シンフェロポリのギムナジウムに入学します。その後進んだペテルブルク美術アカデミーでは、群を抜いた好成績で卒業。風景画や海洋画で稼いだ賞金で生計を立て、黒海沿岸の諸都市で肖像画家として活動した後、ヨーロッパ各地を旅して回りました。長寿であったことも功を奏し、当時ロシアで最も多作な画家となり、生涯で6000点を超える作品を残しています。また芸術家として成功を収め、故郷のフェオドシヤに美術学校や美術館を開いています。風景画を主に描いていますが、その大半が海をモチーフにしており、ロシアを初め世界中で人気のある海洋画家の1人です。

この作品は、夜の嵐の海へ投げ出された人たちが、難破した船の破片につかまって荒波の中を漂っている様子が描かれています。「嵐の海では第一の波から第二、第三と波が次第に大きくなり、第九の波で最高潮に達して、また第一の波へ戻る」という言い伝えがモチーフになっており、荒れ狂う波と共に、自然に抗う人間の強い生命力も表現されています。縦約2メートル、横約3メートルの超大作に描き出された眩しい空と海からは、自然の脅威と美しさのどちらも感じることができます。

・《サドコ》 1876年 イリヤ・レーピン

(Public Domain /‘Sadko’ by Ilya Repin. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ロシアの口承叙事詩の一つである「ブィリーナ」を題材として、画家イリヤ・レーピンが物語の情景を描写した作品です。

(Public Domain /‘Self-portrait’ by Ilya Repin. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

当時のロシアでは長らく中世の聖画像の伝統に縛れ、模倣的な作品しか生み出されていませんでした。しかし1870年にサンクトペテルブルグで「移動派」が結成されると、模倣に縛られない独自のロシア絵画が確立していきます。その中心となったのがイリヤ・レーピンです。イリヤ・レーピンは1844年、ロシア人入植者の子としてウクライナのチュグエフに生まれました。1866年にイコン画家ブナコフの元で修業を積み、サンクトペテルブルクに上京します。ロシア帝国美術アカデミーへ短期間入学し、1873年から1876年までイタリアとパリに遊学。フランスの印象主義絵画の色彩と光の使い方に影響を受けました。生涯彼は自身の出生と同じ一般大衆に注目し続け、ウクライナやロシアの地方の庶民を描くこともありました。

作品の題材にされている叙事詩はこのようなストーリーです。サドコという名の貧しい楽器弾きが海の王の力を得て巨万の富を築きましたが、ある日船が海上で動かなくなります。自分が海の王に相応な敬意を払わなかったことが原因だとして自身を生贄として海底の王に会いに行き、海の王のために楽器を演奏すると、その返礼で新たな花嫁として様々な民族の美女が贈られます。この作品ではその場面が描かれており、画面中央において花嫁行列が明るく優美に表現されています。画面の右手に描かれているのが主人公であるサドコですが、サドコは地上にいる妻と見つめ合っており、この後浜辺で目を覚まして妻と再会します。地上でサドコの帰りを待つ妻の姿は画面左に描かれています。印象派的な光と色彩の効果により、叙事詩の幻想的で美しい世界が描き出されています。

■おわりに

ロシア国立美術館の本館は宮殿を改修したものであるため、建物自体も一見の価値がある豪華な美術館です。宮殿の雰囲気を味わいながらロシア美術の歴史と推移、全体像を知ることができます。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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