【フォルクスワーゲン|国民車構想から世界一の自動車メーカーへ】

ヒトラーが打ち出した国民車構想から世界一の販売台数を誇る自動車メーカーに成長したフォルクスワーゲン。ドイツに拠点を構え現在は日本や中国、北米やブラジル、イランでも展開している。世界的な自動車メーカーではあるが紆余曲折を経て成長してきたメーカーでもある。

■ヒトラーの構想から生まれたフォルクスワーゲン

フォルクスワーゲンの始まりはヒトラーがベルリンモーターショーで提唱した国民車構想です。国民全員が自家用車の所有を実現すべく考えられた構想です。フォルクスワーゲンと言う言葉そのものが「一般大衆車」を意味しています。

国民車構想は1934年にさかのぼり、フォルクスワーゲンの発足は1937年となっています。考えられていた構想は大人4人と荷物を乗せ、時速100km以上で高速走行する性能と丈夫な車体、空冷エンジン、リッター14.3km以上に加えて車体が1000マルク以下と言う画期的ながらハードルの高いコンセプトがありました。

政府の命を受けて開発に取り組んだのは、ドイツ軍の戦車の設計等も手掛けたフェルディナント・ポルシェ博士でした。ポルシェ博士は自動車会社を転々として活躍していましたが組織の中にいては自分が目指すリアエンジンの小型大衆車の開発ができないと考え、自動車設計事務所を開きます。

そのタイミングでドイツ政府からお声がかかったのは願ったりかなったりのことでした。1936年に試作車が出来上がり、1937年に準備会社が発足、1938年にフォルクスワーゲン製造会社に改名しKdFと名付けられた国民車の製造がスタートしていきます。

順調に稼働していくかに見えましたが時代は第二次世界大戦真っただ中。フォルクスワーゲン製造会社は軍需生産に移行を余儀なくされます。国民向け、いわゆる民需のためにフォルクスワーゲンを製造することができなくなります。

軍需生産によりフォルクスワーゲン製造会社の生産ラインはポーランド、ウクライナ、ロシア、ベラルーシ、イスラエル…と近隣国から強制労働者などを集め、過酷な労働環境の中での製造がおこなわれました。

戦火の中、国民車構想はとん挫しかけてしまいます。

■フォルクスワーゲンゴルフの誕生

敗戦国になったドイツにおいて、KdFの工場も解体されそうになりますが国民車構想など先進的な思考に注目したイギリス軍は工場の再稼働を計画し、KdFをフォルクスワーゲンタイプ1として量産が始まります。(この時のフォルクスワーゲンは国営企業)

1960年になりフォルクスワーゲンは民営化され益々の発展をもくろみますが上手くいきません。タイプ1の売れ行きは好調なものの売り上げの一部はポルシェ博士と子供が設立したポルシェ車に支払い続ける必要がありました。

第二次世界大戦中に消滅しかけたフォルクスワーゲンがまたしても危機に立たされるのです。タイプ1からの後継車種の生産が急務となるわけです。

フォルクスワーゲンは1964年に現在のアウディを買収し、1969年にはNSUと統合を果たし、前輪駆動エンジンの技術を転用できるようになります。さらに、車体デザインはジウジアーロが担当することでフォルクスワーゲンゴルフが誕生します。

フォルクスワーゲンゴルフは車体計上が四角形、エンジン搭載が前方で横向き搭載、冷却方法は空冷など、タイプ1とはすべてが対照的なモデルとなりました。

がらりと変わった仕様のフォルクスワーゲンゴルフは新たなスタンダード車種として大ヒットし、今もなお人気車種の一つと言えるモデルです。

■1980年代以降は拡大路線

フォルクスワーゲンゴルフのヒット以後、1980年代はますます拡大路線をたどっていきます。スペインのセアトの買収、中国の上海汽車とは合弁会社の設立、チェコのシュコダの買収と着々と規模を拡大していきます。

1993年にはフェルディナント・ピエヒが会長に就きますが母はフェルディナント・ポルシェの娘でもあります。ピエヒが会長に就任すると企業規模の拡大やブランド化の狙いから高級車思考に変化していきます。

大衆車として根付いてきたゴルフも車幅が広がり、高さは低く内装はベンツやBMWにも引けを取らないものに様変わりしていきます。

この時期に買収や商標登録した自動車メーカーにはベントレー、ランボルギーニ、ブガッディなどそうそうたるメーカが名を連ねていることからも高級志向に変わったことがうかがえます。

■ポルシェとの経営統合から世界一へ

規模拡大を進めてきたフォルクスワーゲンですが利益率でいうとベンツやBMW、トヨタ、ヨーロッパのメーカーに劣っていました。

しかし。利益率では劣るものの規模に注目していたポルシェがフォルクスワーゲンの買収に意欲を見せます。

ポルシェは1990年代に経営難に陥りますが様々な施策により、経営基盤を築くことに成功します。そして、業界の生き残りをかけフォルクスワーゲンの買収を目論むのです。

ところが、2008年のリーマンショックによる世界的な金融危機にポルシェは飲み込まれます。ポルシェの市場を支えていた北米での売り上げが激減するのです。

完全に立場は逆転しフォルクスワーゲンがポルシェの株を取得して傘下に収めることに成功します。フォルクスワーゲンはさらなる規模拡大に成功することになります。

加えて中国進出を早い時期から進めていたフォルクスワーゲンにとって、中国経済の急成長も追い風となります。中国の自動車販売市場でシェアを20%も占める規模になります。

ポルシェを傘下に収める前のフォルクスワーゲンは生産台数が500万台にも満たない規模でした。それが2014年にはグループ年間販売台数1000万台突破、2014年度と2015年度上半期はついに世界一に輝きます。

ヒトラーの国民車構想から何度か消滅しかけながらも80年の時を経て世界一に上り詰めることになります。

■フォルクスワーゲンの世界展開

フォルクスワーゲンは早くから近隣国のメーカーを中心に買収等を繰り返し規模を拡大してきました。

遠方国では中国には早くから進出したのは先述の通りです。中国のほかにも日本では1983年にフォルクスワーゲンの直接的な子会社であるフォルクスワーゲン株式会社が設立されています。日本国内のメーカーと提携も行っています。

北米ではアメリカに1949年から輸出が始まって以来、アメリカ国産車の対抗馬として人気の大衆車でもありました。ところが1970年代以降、アメリカ社に近づけすぎたなどの失策から徐々にシェアが縮小していきます。

ブラジルにも進出しており1953年に現地法人でもあるフォルクスワーゲン・ド・ブラジルを設立。独自車種の生産も手がけました。1979年にはクライスラーの工場や販路を買い取り中型トラックの生産にも進出しています。

ブラジルでの事業展開は南アメリカ近隣国やヨーロッパ、北アメリカ各国への輸出をすることから大きな拠点にもなっています。

2017年8月からはイラン向けの自動車輸出を開始し新車需要はイギリスより上との見方もあります。

■フォルクスワーゲンの課題

世界一の自動車メーカーに上り詰め、順調に事業拡大を進めているフォルクスワーゲンですが課題もあります。

利益の多くはポルシェやアウディなどの高級ブランドに頼っている側面もあります。販売台数の3分の1位を中国市場に頼っているのも懸念材料です。中国の好景気も徐々に落ち着きを見せています。

2015年9月にはディーゼルエンジンの一部の車種で排ガス規制を不正にすり抜け、実走時の有害排出物が規制値を上回っていることが分かりました。(アメリカにおいて)

不正の影響でアメリカだけでも1台につき37500米ドルの制裁金が課せられました。また、不正によりアメリカでの販売台数が一年で25%も下落します。

フォルクスワーゲンは自動車メーカーのみならず、国内においては最大手の企業であることからその不正が長期化するとドイツ経済にも影響があるとの指摘があります。

しかし、2018年6月13日、フォルクスワーゲンは本社を管轄する検察庁から10億ユーロの罰金の支払い命令を承諾したことをもって行政罰の手続きは終了としました。
アメリカではおよそ250億ユーロの支払いにも合意し、事態は収束に向かっていると言えます。賠償金支払いや不正行為からのイメージ失墜により経営を危惧する声もありましたが2017年は年間販売数、純利益ともに過去最高を記録しています。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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