フリーダ・カーロ 〜波乱に満ちたメキシコ人女性画家の痛みの芸術〜

(Public Domain /‘Frida Kahlo’ by Guillermo Kahlo. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

フリーダ・カーロ(1907-1954)はメキシコを代表する女性画家である。メキシコとネイティブ・アメリカンの文化に強い影響を受け、民族芸術の文脈でも有名であり、シュルレアリスム的な絵画や肖像画をたくさん描いた芸術家である。幼少期から病気を抱え、パートナーとの離婚や再婚など、その波乱に満ちた人生を表現の題材としており、作品を時代ごとに見ることで、フリーダの人生を想像し、女性の普遍的なテーマに迫ることができるのだ。

※フリーダ・カーロの生家(現在は博物館)

【生い立ち】

1907年、メキシコシティ近郊の町にある「青い家」で、三女の娘として生まれたフリーダ・カーロ(以下フリーダ)は、職業写真家である父の影響で、幼少期から写真や芸術に触れる機会を得ました。父は1921年のメキシコ独立100年に出版された写真を担当するなど活躍し、写真家としての地位を確立しており、家庭は安定した暮らしをしていました。ところがメキシコ革命により、しばらく不安定な生活を余儀なくされます。そして母親は出産の影響で衰弱しており、フリーダは乳母によって育てられます。その当時の体験を「母親からの愛情を感じたことはなかった」と後年綴っているほどです。またフリーダも6歳の頃に重い病気にかかっており、右腿が痩せています。リハビリを兼ねて父親が散歩に連れ出し、そこで水彩画やカメラを習います。この幼少期の体験が後の創作活動に大いに貢献しています。

【バス事故と創作活動】

1922年メキシコ最高教育機関である国立予科高等学校へ進学します。この年は女性が初めて入学した年で、フリーダを含めて35人が入学します。そして1925年9月17日、通学中のバスが路面電車と衝突するという大事故が発生し、フリーダも大怪我を負い、これによって生涯にわたり右足と背中の痛みに悩まされることになります。長いリハビリの中、フリーダに希望をもたらしてくれたもの、それが絵を描くことだったのです。この時期、病室の天井に鏡を取り付け、フリーダは絵と本格的に向き合い画家を志していきます。

【画家ディエゴ・リベラとの出会い】

1928年、怪我もある程度のところまで完治したフリーダは、文化人や芸術家の集う新しい芸術運動(メキシコ共産党)に加わります。そこのリーダーが夫となる壁面画家ディエゴ・リベラ(以下ディエゴ)だったのです。尊敬するディエゴに、フリーダは自身の絵画作品を見せ意見を求めたところ、ディエゴはその絵を賞賛します。そして、お互いの芸術を理解しあえる2人は急速に近づき、すぐに結婚することになりました。このときフリーダ22歳、ディエゴ43歳。年の差もあり、フリーダの両親はあまり快く思ってませんでした。そして父親はディエゴにこう言います。「うちの娘の中には悪魔が棲んでいる」と。これは芸術家という生き物は誰もが内なるモンスターを飼っているもので、誰よりもはやくフリーダの芸術家としての才能を見抜いていたからこそ出てきた言葉でしょう。婚約した後、2人はディエゴの仕事にあわせてメキシコからアメリカの各都市を転々としています。フリーダがディエゴの好みのテワナ衣装を着るようになったのもこの頃から。1930年から度々妊娠はするもののバスの事故による影響で続けて流産を繰り返しており、それがフリーダの作風に大きな変化をもたらしていきます。この時期「ヘンリー・フォード病院」という作品を描いています。これを機にフリーダは自身のなかにある「痛み」を表現として描いていくのです。1933年メキシコシティ郊外に家を建て、2人はそこで暮らすこととなりました。

※旧500ペソ(表:ディエゴ・リベラ 裏:フリーダ・カーロ)

【暗い結婚生活&痛みの芸術】

夫のディエゴは自由を謳歌するタイプであり、家に収まる人間ではなく奔放に夜遊びを繰り返していました。そしてディエゴはこともあろうかフリーダの妹と浮気をします。それを知ったフリーダは悲しみと怒りのなかでメキシコシティ中心部へと逃げるように引っ越しをします。そして、そこで描いた作品が「ちょっとした刺し傷」という作品です。フリーダの作品は自画像が中心で、その根底には痛みがあるのです。皮肉なことに、私生活が激しいものであるほど、作品は美しい芸術作品へと昇華していきます。運命をねじ伏せるために、絵を描かなければならなかったのです。またこの時期にディエゴの浮気への復讐として、彫刻家のイサム・ノグチとも関係を持ちました。その後は再び政治活動を行うようになり、なかでも革命家レオ・トロツキー(ソビエト連邦)のメキシコ政府の庇護に尽力しました。そこでもフリーダはトロツキーと関係を持つことになり、「レオ・トロツキーに捧げた自画像、あるいは、カーテンのあいだ」という作品を描いている。それをトロツキ−と親交のあったフランスのシュルレアリストであり詩人のアンドレ・ブルトンが賞賛し、シュルレアリストとしての側面を強くしていきます。

【アメリカ進出と世界的評価】

1938年、フリーダはニューヨークのジュリアン・リーヴィ・ギャラリーで個展を開き、同年には再び同じギャラリーで個展を開催して、美術評論家やコレクターからの評価を急速に高めていきます。1939年、この年はフリーダの名声を確立した年といえます。そのきっかけは、ハリウッド俳優のエドワード・G・ロビンソン(1893-1973)がフリーダ作品を大量にコレクションしたことです。それからフリーダ作品が本格的にアメリカでも紹介され、MOMA(ニューヨーク現代美術館)から絵の注文が正式に依頼されるほどの地位まで登っていきます。さらに同年、詩人アンドレ・ブルトンがディレクションした企画展に参加し、そこではピカソやカンディンスキーからも賞賛されます。さらにルーブル美術館に作品「ザ・フレーム(額縁)」がパーマネントコレクションされたのです。瞬く間にアートシーンのアイコンとなったフリーダでしたが、その名声に嫉妬した夫のディエゴとは同年に離婚して、生家である「青い家」に戻ることとなります。しかし、いつまでたってもディエゴを忘れられないフリーダは日記にこんなことを綴っています。

Diego, principio. ディエゴ、根源。

Diego, constructor. ディエゴ、創造者。

Diego, mi nino. ディエゴ、私の子供。

Diego, mi novio. ディエゴ、私の彼氏。

Diego, pintor. ディエゴ、絵描き。

Diego, mi amante. ディエゴ、私の愛しい人。

Diego, mi esposa. ディエゴ、私の旦那さん。

Diego, mi amigo. ディエゴ、私の友達。

Diego, mi padre. ディエゴ、私のお父さん。

Diego, mi madre. ディエゴ、私のお母さん。

Diego, mi hijo. ディエゴ、私の坊や。

Diego, yo. ディエゴ、私。

Diego, universo. ディエゴ、宇宙。

Diversidad en la unidad. 単一の多様性。

Por que lo llamo Mi Diego? どうして彼を”私のディエゴ”と呼ぶのですか?

Nunca fue mi sera mio.  決して私の物にはならないでしょう。

Es de el mismo.  彼は彼自身の物なのだから。

引用:The Diary of Frida Kahlo: An Intimate Self-Portrait フリーダ・カーロの日記(2005/8/9発売)より

【2人のフリーダ】

離婚後、フリーダは傑作「2人のフリーダ」を制作します。フリーダの芸術家としての資質は幼少期から培われていました。それはフリーダのなかにある「もう一人のフリーダ」であり、そのモチーフを絵画という表現で視覚化しています。この作品もそのように理解できます。向かって左は白いドレスを着たフリーダ。右側は民族衣装を着たフリーダです。左右の手はつながり、心臓も繋がっているものの、民族衣装のフリーダの心臓は今にも止まりそうです。これはディエゴに愛されていたときのフリーダが終わりつつあることを表現しています。現実に絶望しながらも表現者としては冷静である、それがフリーダの芸術家としての真髄なのです。しかし、どんなに作品を描こうとも、どんなに裏切られ忘れようとしても、いつも心の中にはディエゴがいたのです。翌年、フリーダからディエゴに提案して再び再婚することになります。その内容は「性的交わりを持たないこと」という条件でした。それ以後、フリーダの作品の中で、自身を大地の母、ディエゴを永遠の胎児としたモチーフで表現するようになります。そうすることでディエゴのことを夫でありながらも我が子のように慈しむことができたのです。
またフリーダは日記のなかでこう綴っています。
「私は胎児、胚、彼を産み出したるー潜在力においてー最初の細胞なり。私は、最始原的にして最古の細胞より生ぜし(彼)なり。細胞はやがて(時)とともに彼になりぬ。」と。
また夫であり画家のディエゴはこういっています。
「彼女は女性特有の、あるいは女性に普遍的なテーマを、仮借のない率直さと冷徹な厳しさをもって描いた、美術史上最初の女性である」と。
激動の時を経ながらも、2人は最後まで「青い家」に住むこととなります。

【おわりに】

特徴的な一本眉をフリーダ自身「私の額の一羽の小鳥」と呼んでいます。その力強い眉同様に、気高く、ユーモアがあり、情熱的な生き方は唯一無二です。47年の短い生涯のなかで残した絵画作品は約200点あり、そのほとんどが自画像です。生涯30回以上にわたっての手術は、まさに苦痛に耐える一生だったともいえるでしょう。晩年は右足を切断するなど苦しかったはずですが、そんな中でも「生命万歳」という遺作をのこすなど、最後まで画家であったのです。
死期を感じていたフリーダはディエゴに早めのプレゼントを渡しています。
亡くなる数日前の日記にこう綴っていたそうです。

退場が喜びに満ちたものであるように。そして、願わくば2度と戻ることが出来ないように

引用:The Diary of Frida Kahlo: An Intimate Self-Portrait フリーダ・カーロの日記(2005/8/9発売)より


最後までドラマティックであったフリーダ・カーロは、1954年7月13日、47年という短くも太い人生に幕を閉じました。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

関連記事一覧