マチュ・ピチュ:空中都市のロマン

マチュ・ピチュはペルーのアンデス山脈の位置する15世紀のインカ帝国の遺跡です。世界遺産として指定されているだけでなく『世界七不思議』の中に数えられています。

■空中都市マチュ・ピチュ

ペルーのウルバンバ渓谷に沿った尾根に存在するマチュ・ピチュ。マチュ・ピチュが作られたとされる当時のインカ帝国の首都クスコが標高3400mの位置にあったのに対し、マチュ・ピチュは約1000m下の標高2430mの位置に作られています。

アンデス文明は文字という文化がなく、マチュ・ピチュがどういった理由で作られたのか、その理由や役割はいまだ明確にわかってはいません。だからこそ多くの考古学者が研究題材に選ぶ、ロマン溢れる遺跡でもあります。

そんな謎多き都市、マチュ・ピチュに迫っていきます。

■インカ帝国の滅亡

マチュ・ピチュの話に移る前に、インカ帝国の最後について話をしておきましょう。

1526年にはじめてインカ帝国を発見したピサロ兄弟は、インカ帝国の秘める財宝や恵まれた土地を確認、1529年に一度帰国しスペイン王に侵略の許可を得て、1532年に再びインカ帝国を訪れることになります。この当時、インカ帝国内は内戦と、天然痘の流行により国力が著しく低下していました。

スペイン側とインカ帝国側の武器や兵の練度の違いもあり、たった150人余りの軍隊で4万人からなるインカ軍を撃破。ピサロによって1533年に首都のクスコが陥落させられてしまいます。

その後、当時の王アタワルパを捕虜とし、金銀を中心とした財宝を要求。国にとって絶対的な存在である王を何とか助けようと非常に多くの身代金が集まりましたが、結果的にピサロはアワタルパ王を殺害。クスコは破壊されアンデス地方は植民地となります。

こういったピサロの一連の行動を見るように、当時のスペイン軍は非常に残虐的でありまた粗暴でもありました。しかし、そんな中でもマチュ・ピチュは現在でもその形をとどめて生き残ります。

マチュ・ピチュは「クスコの位置からは見えないところに造られていた」為であり、また約114キロと離れた場所に建設されていたためです。

何故、インカ帝国はそんな位置にマチュ・ピチュを作ったのでしょうか?

■都市として機能していた

マチュ・ピチュの謎を考えるうえでひとつ重要なことがあります。

それはマチュ・ピチュが都市としてかなり高度なレベルで機能していたという点です。

マチュ・ピチュを見てみるとまず目につくのが石垣でできた建物の数々。すべてで200戸ほど存在し、最高で750名が居住可能とされています。また、マチュ・ピチュには放牧がおこなわれていた形跡や、40段にも及ぶ段々畑があり、そこでは約200種類もの作物が栽培されていたことが判明しました。

また、畑にはほかの地域から肥沃な土を運びこみ、鳥の糞などを原料とした肥料もまかれ、水路も完備。畑として非常に完成度の高いものとなっていました。

■太陽信仰の為の場所

首都クスコに建立されていた『コリカンチャ』をはじめとして、インカ帝国時代は太陽信仰がなされており、マチュ・ピチュもそんな太陽神殿、太陽信仰の為の場所だったのではないかと言われています。

マチュ・ピチュに造られた大塔(太陽の神殿)の存在です。石垣積みの為直線的な建物が多い中で弧を描くように作られ、二つの窓を持つこの建物は、東の窓には冬至の朝、南の窓には夏至の朝の太陽の光が正確に差し込むように建てられています。

また、太陽の神殿には切り出した石でできた『インティワタナ』と呼ばれる石の台があり、仮にこの太陽の神殿が太陽信仰の為に造られた建物であるとすれば、こちらは現代で言うところの日時計に近いものではないかと考えられています。

また、こういった太陽に関する観測や信仰を行うために、あえて東西が切り出したこの区域にマチュ・ピチュを作ったとされており、多くの謎に整合性のある結論が見出せる説でもあります。

整備された都市機能は、信仰の為に生活する神官たちのためのものであり、また神々への貢物として作物や動物を育てるためではないかと言われています。

■避難場所や別荘としての役割

インカ帝国の位置からはマチュ・ピチュが見えないことや、非常に立派な石垣で作られていることから「緊急時の避難場所」としての役割があったのではないかという説もあります。

スペインによる侵攻があったにもかかわらず非常にきれいな状態で形が残っていることや、マチュ・ピチュから発掘された人骨には、争った形跡がなくこの場で戦いが起きなかったことからも、その可能性を示しています。

仮に、首都インカの代わりとしてマチュ・ピチュを作ったのであれば立派な神殿を作ったことや、生活の為の都市機能を整えたことにも合点がいきます。

また、山の切り立った地域に建てられ、東西に障害物のないマチュ・ピチュは、太陽の光が降り注ぎやすい場所でもあります。高い身分の人たちが当時の別荘や信仰をする際の場所として建てられた可能性も大いにあり得るでしょう。

■研究施設や栽培施設

※マチュ・ピチュへ至るインカ道

40段にもなる段々畑に、200種類の作物。正確に冬至や夏至がわかる窓など、マチュ・ピチュは当時の研究施設として建てられたのではないかという説もあります。

また、非常に多くの作物が栽培されていたことや、コカインが栽培されていた形跡があることから食物はもちろん、儀式用の作物を栽培するための施設であったとも考えられています。

このことにくわえ、インカ帝国にはおよそ40kmにもわたる『インカ道』と呼ばれる道が作られており、2014年にはマチュ・ピチュにも通じる道が発見されました。

『インカ道』は、インカ帝国に点在する小さな村などにもしっかりとつながっていたため、作物が獲れない地域や不作の地域があったとしても、マチュ・ピチュの作物を届けることも可能だったといわれています。

道はよく、国家における『血管』と言われています。マチュ・ピチュはもしかすると、インカ帝国における『心臓』のような役割を持っていたのかもしれません。

■マチュ・ピチュはいまだ謎のまま

※インカ帝国の宗教的儀式である太陽の祭り(インティ・ライミ)の劇場上演(ペルー、クスコ)

現在は神殿のような扱いをされていたのではないかという説が有力説ではありますが、未だ決め手に欠けており、謎の部分が多いままとなっています。

また、マチュ・ピチュの役割を限定的にみるのではなく、すべて総合した「ひとつの都市だった」という考えも根強くあります。

ロマンの塊のような遺跡、マチュ・ピチュ。その謎の解明は未だ時間がかかりそうではありますが、同時に少しずつ謎がほどけていく楽しさを噛み締められる遺物でもあります。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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