アレサ・フランクリン:歴史上もっとも偉大なシンガーと言われた波乱続きの人生

アレサ・フランクリンはアメリカ合衆国出身のソウル歌手で、圧倒的な歌声から「クイーンオブソウル」や「レディ・ソウル」の異名を持ち、現在一線で活躍するシンガー達の中にも彼女に憧れている人も多く、歴史に残る歌姫です。

● 偉大なディーバの生い立ち

テネシー州、メンフィスで有名な教会で牧師をしていた父とゴスペル歌手の母の間に生まれたアレサは、デトロイトで育ちました。小さい頃から両親は別居しており、アレサは父親に引き取られ、小さな頃から父の教会でゴスペルを歌っていました。
母とは別居後も度々あっていましたが、彼女はアレサが10歳の時に34歳の若さで他界してしまいました。
父親も家を空ける事が多く、雇い人達に育てられたアレサにとって、歌うことは何よりも幸せでした。12歳の時に聖歌隊のソロをとるようになり、18歳になると高校を中退し、ニューヨークに出て、本格的にボイストレーニングを受けるようになります。
1961年、当時19歳でコロンビアレコードからデビューしましたが、レコード会社がポピュラーシンガーとして売り出し、小さい頃から慣れ親しんだゴスペル調の曲は発表されませんでした。
その為、当時はヒットする事も無く彼女の歌は、世界にインパクトを与える事はありませんでした。
1966年にアトランティックレコードに移籍し、プロデューサーのジェリー・ウェクスラーは彼女の特徴であるゴスペルのフィリングを採用し、ヒット曲が沢山生まれました。そして、彼女は「ソウルの女王」として評価されて行くのです。

● 力強い歌声が結びつけた、市民の支持

アトランティックレコードに移籍してから、アレサは「シンク」「チェイン・オブ・フールズ」「ナチュラル・ウーマン」など、数々のヒット曲を連発しました。1967年にオーティス・レディングのカバー曲「リスペクト」を発表すると、全米1位を獲得し、当時の公民権運動やフェミニスト運動の盛り上がりを後押しする形となり、「リスペクト」はそういった運動の賛歌の様な扱いを受けました。アレサは黒人女性達の希望でもありました。
また、白人の持ち歌を彼女なりにカバーすると、まるで彼女のオリジナルかの様にソウルフルに生まれ変わり、「単なる男女の恋愛歌もアレサが歌うと人類愛を歌っているように聞こえる」と高評価をうけました。
ただ、アレサの歌声は、黒人だけの物ではなく、差別が残る時代の中、白人のリスナーの心にも簡単に入り込む事ができました。
1971年に行われたショーでは、普段とは全く違う客層の中で歌い、ヒッピー達にも受け入れられました。ショーの途中でレイ・チャールズが客席に居る事を聞いたアレサは、彼をステージに上げて一緒に演奏しました。その時の様子をレイは後に「彼女は会場を教会に変えてしまった」と言っています。

● 輝かしい歌手活動の裏で、波乱だらけだったアレサの私生活

誰もが認める大スターのアレサでしたが、私生活は波乱続きでした。実は彼女は、12 歳で第一子を出産し、14歳で第二子を出産しています。また、人気絶頂時にも彼女のマネージャーでもあり、夫だったテッド・ホワイト氏が公の場でアレサに暴行をはたらき、二人は離婚しています。テッドはアレサに麻薬も覚えさせたと言われています。
ただ、テッドとの子供はプロのギタリストとして活躍し、母アレサ・フランクリンのコンサートでバックを務めたこともあります。
結局彼女は生涯で2度結婚し、4人の男性との間に4人の子をもうけました。
その他にも、飛行機嫌いが有名で、その原因の一つとして1967年にオーティス・レディングが飛行機事故で無くなった事があるのではないかと言われています。当時、オーティスとアレサは同じように人気を博していました。オーティスの死がアレサにとって大変ショックだったようです。
自身のチャートのランクも落ち込んで来た頃には、父親が自宅で強盗に銃で襲われ5年間の昏睡状態を経て息を引き取りました。
彼はその後のアレサの華麗な復活を見守る事はできませんでした。

● 時の流れと共に人気も落ち込んで行く

1970年代後半から、アレサのチャートは下降の一途をたどり、ラジオやテレビからも彼女の歌声は聞こえなくなっていました。
2012年のローリングストーン誌のインタビューで、その頃を回想したアレサは父の言葉を思い出していたと言います。
「お前がいくら歌が上手く、どんな成功を収めたとしても、喝采はいずれ収まる。そしていつかは拍手も起こらなくなる。ついにはハレルヤもアーメンも聞こえなくなる。ファンも目の前から居なくなるかもしれない。」
こうした兆しは幾度とあったし、確かに父の言う通りだったと語りました。
時代の流れは残酷にも彼女に屈辱を与えました。ただ、アレサの歌声は衰える事はありませんでした。

● 努力の末の復活劇

シンガー生活が下降気味だったアレサ・フランクリンですが、1980年にクライヴ・デイヴィスがアリスタレコードを立ち上げた際に移籍し、2年後に努力が実る事となります。
ポップやロックとの融合を試みた楽曲が受け、1987年女性初のロックの殿堂入りを果たします。
その後も新しい音楽にも果敢にチャレンジし、当時の若手アーティストともコラボレーションしました。1998年にはアレサを心から敬愛する、シンガーのローリンヒルが彼女の為に曲を制作しプロデュースしています。
一度は引退も宣言しますが、すぐに撤回。精力的にライブ活動を続けて行きます。
2005年には大統領自由勲章を授章、2008年にはローシングストーン誌で「史上最高のシンガー」に選ばれ、2010年にはアポロシアターの殿堂入りを果たしました。

● 体調の変化

1990年代前半から、禁煙の影響でアレサの体重は増えて行きます。その後もしばしば健康上の問題で、リリースが遅れたり、コンサートが中止になったりするなど、思うように進みませんでした。
また、腫瘍の摘出手術で体重が急激に減った事もありました。当時は重病説も噂され、本人がはっきりと否定しています。
アレサはこの頃にも引退を表明しましたが、再度撤回し、活動を続けて行きました。やはり彼女から歌を取り上げる事は本人でさえ出来なかったのでしょう。

● アレサは生涯シンガーだった

体調不良を繰り返していたアレサでしたが、その歌声が衰える事はありませんでした。2009年にオバマ大統領就任式に出席し、圧巻の歌声を披露しました。正に過去の市民権運動のシンボルとして歌い続けた行動が身を結んだ出来事だったとも言えるでしょう。
2014年にはアデルの「ローリング・イン・ザ・ディープ」をカバーすると、自身の100曲目であるR&Bチャートインを果たします。

そんなアレサの人生最後のステージは2017年11月のエルトン・ジョン・エイズ基金のガラパーティーでした。体調が思わしくなく、歌声もやや弱まってしまいましたが、見事に歌い切りました。その後も彼女は数回のライブを予定していたと言う事ですが、医師からのドクターストップもあり、それはかないませんでした。
そして2018年8月16日ミシガン州デトロイトの自宅で膵臓がんのため、息を引き取りました。

彼女の訃報を受けて、各界の著名人や世界中のファンから悲しみの声が寄せられました。
グラミー賞は実に20回受賞しており、素晴らしい功績を残しています。
彼女の自伝を映画化する話も出ているようなので(話が二転三転して、ややこしそうですが)実現したら是非観てみたいですね。
生涯現役のアレサですから、未発表曲もあるのではないかと噂されています。そちらも来たいして待ちたいと思います。
歴史上最も偉大なシンガーは星になってしまいましたが、彼女の歌はこれからも世界中で流れ続け、歌い継がれて行く事でしょう。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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