ガリレオ・ガリレイ:誰も信じなかった地動説を証明した天文学の父

※1636年の肖像画
(Public Domain /‘Portrait of Galileo Galilei’ by Justus Sustermans. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ガリレオ・ガリレイ(1564−1642)
イタリアのルネッサンスを代表する学者。物理学者、天文学者、発明家でもあります。各分野で大きく貢献したことから「近代科学の父」、「天文学の父」と呼ばれ、いまでは常識となった地球は太陽の周りを回っているという「地動説」を証明しました。

※異端審問を受けるガリレオ
(Public Domain /‘Galileo before the Holy Office’ by Joseph-Nicolas Robert-Fleury. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

<望遠鏡と地動説>

ガリレオ・ガリレイは1564年2月15日に、トスカーナ大公国のピサ(現在のトスカーナ州)で生まれました。医学を学ぶため大学へ進学するも数学の虜となり、1589年には教員の資格を得てピサ大学で数学の教授を務めます。1592年になるとヴェネツィア共和国へ移り、ピサの斜塔から多きさの違う二つの球を落とす落下の研究を行いました。落とした球が同時に地面へ着地することで、「物体の重さに関わらず、落下俗度は一定である」ということを証明しました。またこの実験には空気抵抗を減らすため鉛玉が使用されたと言われています。
1609年、オランダで望遠鏡が発明されたという噂を聞いたガリレオは、自身でも望遠鏡を制作し天体の観測を始めました。彼はコペルニクスが唱えた地動説に賛同していましたが、当時はまだ地球の周りを惑星が回っているという「天動説」が主流だったため望遠鏡を使うことで説を証明できないかと考えたのです。観測をしていると月の表面にある凹凸や太陽黒点、木星の周囲を回る衛生などを発見。これにより地動説は正しいと確信を得たガリレオはその内容を記した「天文対話」という本を出版します。しかしこれがキリスト教の教えに反している、異端であると判断され、最終的には裁判になり有罪の判決を受けてしまいます。この裁判でガリレオは「それでも地球は回っている」という名言を残し、終身刑となりました。

<偉大な功績とその代償>

終身刑を受けたガリレオでしたが、当時のローマ大使が抗議しメディチ家別荘への軟禁へ減刑されました。このとき彼はすでに70歳近い年齢となっており、別荘から自宅へ移され余生を過ごします。その後ガリレオは太陽を望遠鏡で観察した代償として両眼を失明。書き物をする際は口頭で伝えたものを弟子が書き取っていました。1638年にはガリレオがいままで行なってきた実験の結果を記した「新科学対話」という本が出版されました。この本は軟禁されていた自宅からオランダの出版業者まで密輸され刊行に漕ぎ着けたようです。ガリレオは本の出版から4年後の1642年に77歳で亡くなりますが、罪人という扱いのため墓を作ることが許されず礼拝堂の霊廟に埋葬されました。

※サンタ・クローチェ聖堂にあるガリレオの墓

<76年後の無実と指差すローマ>

ガリレオが亡くなってから76年後の1718年。ガリレオが受けた有罪判決は間違いであったと認められ、1737年にフィレンツェにあるサンタ・クローチェ聖堂へ再度埋葬されました。しかし彼の崇拝者が遺体を掘り起こした際に指3本と歯1本、脊髄の一部を持ち去ってしまいました。その後脊髄はパドヴァ大学に送られましたが、歯と指は世代を超えてコレクターの手に渡り1905年頃行方不明に。もう出てくることはないと思われていましたが、2009年に突如宗教的遺物と一緒にオークションへ出品されたのです。何か分からないまま競り落とした美術品収集家のアルベルト・ブルスキはのちにこれがガリレオの体の一部だと知り、調査などが行われた末ガリレオ博物館へ送られました。現在もガリレオ博物館に展示され、ローマの方角を指差し続けています。

※フィレンツェにあるガリレオの像

<さいごに>

数々の分野で偉大な功績を残し、有罪判決を受けても自身の信念を貫いたガリレオ・ガリレイ。彼の研究は現代科学や天文学の基礎となっています。世界史の授業で紹介されることもあるので、ほとんどの人が彼のことを知っているのではないでしょうか。ガリレオの出版した本は世界各国で翻訳され、いまも多くの人に親しまれています。ガリレオ博物館では彼が観測につかった望遠鏡などを見ることができるので、興味のある方はぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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