シドニー・ノーラン:勇敢な無法者に憧れた真のオーストラリア画家

シドニー・ノーラン(1917―1992)はオーストラリアの画家・版画家です。オーストラリアに語り継がれる伝説のギャング「ブッシュ・レンジャー」のネッド・ケリーの絵を描いたことで有名になりました。数学者のアルバート・タッカーや画家のアーサー・ボイドらと共に前衛美術の先駆者として活躍し、オーストラリアの歴史や風景などを題材にした作品を数多く残し、20世紀のオーストラリア芸術界を代表する画家として国際的に活躍しました。

<ヨーロッパに憧れる学生>

シドニー・ノーランは1917年4月22日にメルボルン郊外の町カールトンで、4人兄弟の長男として誕生しました。アイルランド系の第5世代のオーストラリア人の両親の元で育ち、父親は路面電車の運転手をしていたそうです。美術について本格的に学びたいと思っていたノーランは、プラハーン工芸学校(現在のスウィンバーン大学の一部)のデザイン・工芸学科に進学し、通信教育を利用して勉学に励みました。
近所の帽子工場でアルバイトをしてお金を稼ぎ、17歳の頃にそれで得たお金を使ってビクトリア国立美術館美術学校に入学します。アルバイトを続けながら学校へ行き、仕事の合間を縫って夜の授業に出席していました。そして彼はこの学校でピカソ、クレー、ミロなどの画家の作品に親しみ、ヨーロッパの美術に憧れを持つようになりました。

<パトロンの存在>

後にノーランは新進芸術の集団「ハイディ・サークル」の主要メンバーになりますが、そのきっかけは、アート収集家であり様々な芸術家のパトロンをしていたサンディ・リード夫妻と知り合ったことでした。この頃ノーランはエリザベスという女性と結婚しましたが、リード夫妻との親密な関係や、芸術家としての活動が忙しくなるにつれて夫婦関係に溝が出でき、3年ほどで離婚してしまいます。
1940年に最初の個展を開いたノーランですが、なかなか良い評価が得られませんでした。彼はそのまま長い間日の目を見ず、1942年に陸軍に招集され陸軍基地のあるビクトリア州北部のウィメラに配属されます。そしてノーランはウィメラの、オーストラリアらしい赤土の荒野の風景を描きました。
彼の画風はしばしば、抽象画と具象画を行き来していると評されることがあります。この頃改めてオーストラリアの原風景に魅力を感じたノーランは、自身がこれまで憧れてきたヨーロッパの抽象画と距離を置くようになります。軍隊で愛国精神を培ったことも影響していたのか「オーストラリアの画家」としてのアイデンティティーを確固たるものにしようと決意します。そして軍隊を出てメルボルンに戻ると、作家や詩人との交流を盛んに行いいろいろな芸術会や鑑賞会や出版社のパーティに参加し人脈を広げ、文芸誌「アングリー・ペンギンズ」の表紙を手がけるなどの活動をしました。

<ブッシュ・レンジャーのネッド・ケリー>

ノーランは1946年にオーストラリアのビクトリア州北東部を旅行した際に「ブッシュ・レンジャー」というオーストラリアの古典的な山賊、ネッド・ケリーという存在に触れます。そして彼の生き様や思想に深く感化されたのでした。
ノーランは幼い頃からネッド・ケリーの話は知っていたものの、時間が経ってから再会したことでより強い衝撃を受け、彼から制作のインスピレーションを得ます。そして大ヒット作となった「ケリー追跡大作(1878―1880)」のシリーズが生まれます。オーストラリアで大衆的人気のあるネッド・ケリーを描いたこの連作は彼の出世作となりました。現在のオーストラリアで彼の作品を知らない人はいないといってもよいほどであり、記念切手になったこともあります。また2018年には、シリーズ第1作目の『1等射撃者』が約540万オーストラリアドルで購入されることになるのでした。

<三度の結婚と娘たち>

ノーランは1948年にシンシアという女性と2度目の結婚をし、1978年にはメアリーという女性と3度目の結婚をします。彼にはアメルダ・ラングスローとジンクス・ノーランという2人の娘がおりましたが、ノーランは亡くなるまで娘たちと一定の距離を保ち、別居家族としての関係を保っていたそうです。

<辺境の移民ギャングへの憧れ>

※郊外に設置された「ケリー&ホース」を模した看板

ノーランの先祖はアイルランド系の移民で、祖父は警察で巡査部長をしていてネッド・ケリーを捜査していました。ノーランとケリーにはそんな不思議な縁があるのでした。
原始的なオーストラリアの風景や、大地のパワーを感じさせるモチーフの作品多く描いたノーラン。彼の作代表作「ケリー&ホース」は発表された当初とても話題になり現在は、首都のキャンベラにあるノーランギャラリーに展示されています。この作品は、50枚を超えるネッド・ケリーシリーズの一部で、ノーランは長い年月をかけて描き続けました。
鎧を着た人物と馬はキャラクターのような愛着の沸く表情をしています。背景には背丈の低い茂みや赤い土、荒れた荒野などワイルドなオーストラリアの原風景が描かれていますが、この景色はメルボルンから北東に約200キロメートルのところにある、グレンローワンという小さな町がモデルとなっているそうです。この場所は開拓者の子孫であるオーストラリア人にとっての原点とも言える風景で、荒れた荒野を開拓してできたオーストラリアの歴史を感じられます。ネッド・ケリーはまさにこのような土地の開拓者の苦労から誕生したギャングでした。

ケリーとノーランの共通点はたくさんいる兄弟の長男として生まれたことと、貧しい家庭で育ったことでしょうか。ケリーは8人兄弟で、父親は家畜泥棒をしたことにより囚人となり、アイルランドから開拓移民としてオーストラリアにやってきました。そのため常に監視され、移民の中でも最も地位の低い立場に置かれていました。そんな家庭で育ったケリーは15歳のときに馬泥棒の罪で刑務所に収容されます。しかしそれは移民を差別した警察の嫌がらせによるものであったのにも関わらず、家族もろとも刑務所に送られてしまいます。そしてこのときケリーは、低い木の林の中に潜んでいるギャング「ブッシュ・レンジャー」になることを心に決めます。
ブッシュ・レンジャーであるケリーは、銀行強盗をしては貧しい移民のオーストラリア人に金を分け与え、国を支配するイギリス人権力者や警察に対して命をかけて反抗を繰り返しました。移民たちを社会の最下層という立場に押し込めて、差別される対象にした社会を甘んじて受け入れることは絶対にせず、行動を起こし続けたのです。
しかしケリーは26歳のときに警察に捕まってしまい、激しい銃撃戦の中で足を撃たれ、これまでの悪事を追及され処刑されてしまいます。その際に6万人にも及ぶオーストラリア移民たちが嘆願書を提出しケリーの処刑を防ごうとしますが、結局無視されてしまったのでした。

この史実はオーストラリアの人々にとってあまりにも有名な話ですが、ノーランは改めて開拓移民の人々のやりきれない思いを絵画で表現したのでした。それはやはり多くの人々の心に刺さり、海外の人々にオーストラリアの成り立ちについて知ってもらうきっかけにもなりました。
ネッド・ケリーに憧れる人は今でも多く、ケリーが身にまとった鉄兜と鎧は現在もメルボルンの図書館に保管されています。ノーランもその1人であり、幼少期に見たその鉄兜と鎧から伝わってくるパワーに圧倒され彼に憧れを抱いたのでした。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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