ジョヴァンニ・アントニオ・バッツィ:ソドマと呼ばれたフレスコ画家

(Public Domain /‘Life of St. Benedict’ by Il Sodoma. Image viaWikimedia commons)

ジョヴァンニ・アントニオ・バッツィ(1477―1549)はイタリア出身のルネサンス期の画家で、主にフレスコ画を製作していました。シエナ派に属する彼は人体を官能的に美しく描くことに長け、ローマのルネサンス様式とシエナ派の伝統的な技法をミックスさせた手法で描かれていると評されることがあります。また、彼は「ソドマ」という別称で呼ばれていますが、その名前の由来は定かではないようです。

<シエナ派と2人の師>

※シエナの町の空撮

シエナ派とは13〜15世紀頃にピークを迎えた芸術運動で、イタリアのトスカーナ州中部にあるシエナという都市で芸術活動を行なっていた画家たちがこれに属します。シエナはフィレンツェの南方に位置する歴史ある集落で、現在の人口は約5万人ほどです。たくさんの博物館や美術館や教会があり、中世には都市国家としてフィレンツェと競い合っていました。バッツィは生涯のうちのほとんどをシエナで過ごします。
ルネサンス期には都市ごとに画家の派閥があり、フィレンツェ派やヴェネツィア派などが挙げられます。バッツィの所属するシエナ派は割と保守的な派閥だと言われていて、ゴシック調で優美で厳格、そして宗教的で装飾的なことが特徴です。シエナ派の代表的な画家には、ピエトロ・ロレンツェッティやジョヴァンニ・ディ・パオロが挙げられます。
バッツィはイタリアとフランスの国境に位置するピエモンテ州のヴェルチェッリという場所で生まれ、13歳から画家としての修業を始め、2人の師匠に弟子入りしました。1人目のジョヴァンニ・マルティーノ・スパンゾッティからは絵画の基礎や構図についてなど、多くを学びました。そして2人目のジローラモ・ジオヴェノーネからは肉体美の描き方を詳細に学んだため、彼の描く人物はみな筋肉が肉厚で美しい体をしています。

<町の有力な修道院からの依頼でフレスコ画を制作>

(Public Domain /‘Deposit from the cross’ by Il Sodoma. Image viaWikimedia commons)

1500年代初期に描かれたバッツィの代表作「十字架降下」は、バッツィの愛したシエナのある教会から依頼を受けて制作されました。バッツィはシエナからミラノに往訪し、教会の祭壇にふさわしい力強い彩色を学びこの絵を描きました。
また17枚の連作になっているフレスコ画も有名で、これはモンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院のために聖ベネディクトゥスの生涯を描いたものです。激しいゴシック調が特徴的なバッツィらしい作品とは少し違った、繊細で静かな印象を受ける画風になっている理由は、彼が1498年にルカ・シニョレッリという画家からこの絵を引き継ぎ途中から描いたためだそうです。また絵の中には、毛皮を着たバッツィ本人も描かれているので、探して見ると面白いのではないでしょうか。

<サビニの女たちの略奪>

(Public Domain /‘The Rape of the Sabine Women’ byIl Sodoma. Image viaWikimedia commons)

「サビニの女たちの略奪」は古代ローマの伝説的な挿話です。ローマは建国されたばかりの頃、女性の人口が少ないことに困っていました。そこで、近くに住んでいるサビニ人の未婚女性たちを連れてこようということになりますが、交渉は決裂してしまいます。そしてローマ人はサビニ人の女性たちを大量に略奪し、誘拐婚をさせてしまうのでした。その様子を描いたのが『サビニの女たちの略奪』です。このエピソードは、バッツィの他にも様々な芸術家が作品を作っていて、ピエトロ・ダ・コルトーナの絵画やジャンボローニャの彫刻が有名です。
挿話ではその後、サビニ人は女性たちを返してもらうように頼みますが断られ最終的には戦争になってしまうのでした。

<レオナルド・ダ・ヴィンチとの交流>

(Public Domain /‘Holy Family with Young St. John’ byIl Sodoma. Image viaWikimedia commons)

バッツィは21歳の頃にミラノに訪れ「最後の晩餐」を仕上げている最中のレオナルド・ダ・ヴィンチと出会います。そのときのダ・ヴィンチは、どうにかしてフレスコ画技法から逸脱出来ないかと試行錯誤していて、油彩画やテンペラ画法で壁画を製作していました。そんなダ・ヴィンチの元にバッツィが訪れ、そこでは芸術の融合が行われていたに違いありません。そして実際、現在シエナ絵画館にある『聖家族』などは、ダ・ヴィンチの作品に間違えられたこともあったそうです。

<ローマ教皇に死の絵を献上>

バッツィは若い頃を結婚していましたが、妻とはすぐに別れていました。娘もいて、その子はバッツィの弟子の一人であるバルトロメオ・ネオーニと結婚しました。バッツィはローマに往訪した際、アレクサンドロス大王の生涯を描きました。その際に『ダリウスのテントにいるアレクサンドロス』、『征服者とロクサネの婚礼』などの傑作を残しました。

(Public Domain /‘Lucretia’s death’ byIl Sodoma. Image viaWikimedia commons)

そして1513年にレオ10世がローマ教皇になった折、お祝いの品としてバッツィは教皇に『ルクレチアの死』と言う作品を献上しました。お祝いの品に「死」という作品を献上するのは不吉なように思えますが、教皇はこれを大変気に入りました。この絵画に描かれているルクレチアという女性は、ローマ帝国からローマ共和国へ移行させるために活躍しましたが、辱めを受けたことでその後自害してしまいます。この作品は現在、ブダペスト美術館に所蔵されています。
そしてジョヴァンニ・アントニオ・バッツィは、1549年に亡くなりました。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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