ジョナサン・スウィフト:歓喜は無常にして短く、快活は定着して恒久なり。

ジョナサン・スウィフト(1667―1745)はイギリスで活躍した小説家・風刺作家・詩人・エッセイスト・司祭です。アイルランド東部のダブリン出身のイングランド系アイルランド人で、小説の代表作に『ガリバー旅行記』などがあります。長編の風刺文学であるこの作品は現在でも世界中の人々に愛され、彼の肖像はアイルランドの10ポンド紙幣にも使用されています。

<現在に生きる者はごく少ない。誰もが、現在以外の時を生きようとしている。>

宮崎駿監督の日本アニメ『天空の城ラピュタ』をご存知の方は多いと思いますが、そのモデルとなったのがジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』と言われています。『ガリバー旅行記』には小人や巨人、馬の国が登場し、ガリバーが漂流した際に発見した天空の島がラピュタのモデルです。
もちろん彼の作品は『ガリバー旅行記』だけでなく、ブラックユーモアや風刺に満ちた数々の名作があります。スウィフトは痛烈に時代に噛みついた作家でありましたが、そんな彼の執筆の原動力はどこにあったのでしょうか。

※アイルランド、トリニティカレッジの図書館に所蔵されるジョナサン・スウィフトの本

スウィフトは、アイルランドのダブリンにてイングランド系移民の両親の第2子として誕生します。父親は母が彼を妊娠している最中に亡くなり、父の死から約7ヶ月後に彼が生まれました。亡くなった父の家系はイングランドのヨーク州の良家で、母は息子に父の家系の恩恵があるようにと赤ちゃんの頃の彼を父方の家に預け、父方の伯父であるゴドウィンがスウィフトの育ての父となりました。そしてスウィフトは歴史ある名門校キルケニー・グラマースクールへ入学し、その後は15歳でダブリンのトリニティ・カレッジに通い1686年に学士号を取得しました。

<テンプル卿の秘書の経験から執筆活動へ>

1688年にダブリンで名誉革命が勃発しイングランドへ移ったスウィフトは、そこで母と再会します。そして母からウィリアム・テンプル卿の秘書の職を紹介され、その職に就くことになりました。ウィリアム・テンプル卿とは、1668年の三国同盟を調停したイングランドの外交官で、その当時は執筆活動がしたいという理由で公務を引退し自身の邸宅に隠居していました。彼の元で秘書として3年間ほど働き、スウィフトはウィリアム・テンプル卿から信頼を得る立場になったのでした。そして彼の影響で政治に興味を持ったスウィフトは、神学の学士号を持っていたことを生かし牧師を目指します。そして1694年からアは、アイルランド北部にあるキルルートという町で牧師として働き始めました。

<執筆活動と政治活動>

カトリックや宗教倫理について興味を持ったスウィフトは、35歳にして倫理学や聖書に関わる博士の学位を取得します。同じ年の春、スウィフトは自分よりも15歳ほど年下のエスター・ジョンソンと、彼女の友人レベッカ・デイングリーとテンプルの使用人レベッカ・デイングリーらと共にアイルランドに戻ります。
そのアイルランド滞在中に『桶物語』と『書物合戦』を出版しました。この頃スウィフトは、アレキサンダー・ポープやジョン・ゲイ、ジョン・アルバスノットと交友関係を持ち、1713年に「スクリブレルス・クラブ」という学識の濫用を手当たり次第に諷刺する私的なグループを結成します。
彼の政治活動は功績を残すほどの成果がありませんでしたが、倫理と神学の知識を生かしアイルランドの政治パンフレット「同盟国の行為」を発刊し、コラムを執筆しました。そして彼はトーリー党という政党を支持していましたが、凋落してしまいます。
そしてこの頃、1720年に『アイルランド製品の広汎な使用の提案』、1724年に『ドレイピア書簡』、そして1729年に『穏健なる提案』を出版しました。この3つの作品はどれも、約10年間に及ぶ政治支援の経験によって生み出された作品だと言われています。これらが出版された頃、スウィフトは後に自身の代表作となる『ガリバー旅行記』を執筆し始め、1726年11月に初版が発行されます。そしてすぐに重版がかかり多言語に翻訳され、ヨーロッパを中心に広まっていきました。

<メニエール病と教会での孤立>

スウィフトはメニエール病に悩まされていました。メニエール病は現代でも多くの人が悩まされる病気で、耳のリンパが浮腫み音が聴こえづらくなり、めまいや発作などの症状が現れ、原因の多くはストレスや睡眠不足だと言われています。スウィフトは秘書をしていたウィリアム・テンプル卿の遺言により、より高い地位として聖職者の立場を得ることになりました。しかしその教会は辺鄙な場所にあったため彼は孤立してしまい、非常に退屈な時間を過ごしていたと手記に記録されています。
寂しさに耐えかねたスウィフトはジェイン・ウェアリングという女性と恋愛関係になりました。「もし君が僕と結婚するなら残ろう、そしてもし君が拒絶するなら別れて二度とアイルランドへ帰らないと約束しよう」という彼の書いた手紙が残されています。しかしジェイン・ウェアリングがこの提案を拒絶したため、スウィフトは更に精神的に参ってしまいます。そしてスウィフトはイングランドに戻り、ウィリアム・テンプル卿の『古代と近代の学問に関する小論』に対する批判に応える諷刺『書物合戦』を執筆し、1704年に出版されました。

<友人の死によって精神に支障をきたす>

晩年のスウィフトの精神状態は錯乱したものでした。ジョン・ゲイやアレキサンダー・ポープなどの友人の死にショックを受け、死について深く考えるようになりました。そして生きているうちから先祖の墓に自分の名前を書いたり、自分の死亡記事を書いたりして『スウィフト博士の死を悼む詩』というタイトルの詩も書きました。そして1745年10月19日、77歳でこの世を去り、彼が残した財産の多くは精神病院の創設資金に使用されました。

<参考文献>
『ガリバー旅行記』『ドレイピア書簡』『穏健なる提案』『アイルランド製品の広汎な使用の提案』『スウィフト考』

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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