ハーバート・ジョージ・ウェルズ:オーバー・テクノロジーSFの父

(Public Domain /‘Portrait of H. G. Wells’by UNKNOWN. Image via Wikimedia commons)

ハーバート・ジョージ・ウェルズはイングランドの小説家です。もともとは教師を目指し教員免許を取得しますが、教育業界独特の閉鎖的で無改革な風潮に疑問を抱き、1893年から作家活動を開始します。そして1895年の「タイム・マシン」のヒットにより人気作家となり、主に現実にある科学技術を誇張し、趙化学やスーパーテクノロジーを壮大に描いた作品を作り上げていきました。また天才科学にも知見を広げており、宇宙人やオカルトについても題材として起用し、一般的には「オーバー・テクノロジーな作品」という表現がされています。同時代のライバル作家としてはフランス人のジュール・ヴェルヌがおりSFの先駆けとして後世に大きな影響を与え、さらに社会活動家や歴史家としても活躍しました。

<読書好きの少年>

ウェルズは1866年9月21日にイングランドのケント州にあるブロムリーで生まれました。父親のジョゼフ・ウェルズは庭師の経験がありスポーツも万能でとても明るく、母親のサラ・ニールは家政婦をして家計を支えていました。

(※ジョナサン・スウィフト)

ウェルズは幼少期から読書を好み小説や詩集を愛読し、中でもお気に入りはジョナサン・スウィフトの「ガリバー旅行記」でした。スウィフトもイギリスで活躍した小説家の1人で、他にはプラトンの「国家」やトマス・ペインの「人間の権利」など難読書も幼少期から繰り返し熟読するほどの読書好きでした。

<大きな妄想>

ウェルズの家はあまり裕福ではなかったので、青年期になると数々のアルバイトに就きます。洋服屋や家庭教師、薬局のレジ打ちや学校の事務員など数々のアルバイトを経験しますがどれも長くは続きませんでした。当時の体験はのちの作品のエッセンスとして小説内に盛り込まれることになりますが、「キップス」や「トーノ・バンゲイ」などはこの頃の彼を思い描きながら読むと更に面白いでしょう。

(※チャールズ・ダーウィン)

ウェルズは科学や生物学に興味を示し、政府から奨学金を得てサウス・ケンジントンの科学師範学校(現在のインペリアル・カレッジ)に入学します。そしてイギリスの生物学者であるトマス・ヘンリー・ハクスリー教授の講義で生物学を学び、チャールズ・ダーウィンらが論じた進化論について後述研究を参考に自身もその魅力に取り憑かれていきます。幼少期に読んだ「ガリバー旅行記」のように「人が科学技術で大きくなることは実現可能なのだろうか」、また「地球外生命体が地球に侵略し人類はこれから更にどのような進化をとげるのか」などウェルズの頭の中は大きな妄想が膨らむ毎日でした。

(※画像はイメージです)

さらに学校では新聞やパンフレットにコラムを掲載したり、学生誌「サイエンス・スクールズ・ジャーナル」に寄稿したりすることで、文章を人に読んでもらうことやその反応を楽しむことができました。それらの経験がウェルズの自己肯定感を高め、自身の強みこそ文章を書くことだと確信させます。この頃既に学生誌に寄稿していた「時の探検家たち」は「タイムマシン」の原型であり、学生時代に多くの刺激を受けていたことがのちの作品作りに生きていくことになります。

<自分が生きる場所とは>

ウェルズは自分が学んだ生物学の知識や数々の妄想や空想のストーリーを、自分よりも年下の子どもたちに読み聞かせたいと考えるようになります。そのためには教師になるのが良いのではないかと考え教員免許を取得しますが、当時のイギリスの教育業界は非常に保守的で、独自の理論を授業の中で展開することができるような環境は整っていませんでした。昔からあるカリキュラムにのっとり、共通テストに合わせた画一的な内容を教えることこそが教員の仕事だということに不満を感じ、それらを変えることは難しいと実感したため教員としての人生を終えます。

「自分がこれまで学んできた科学知識やそこから生み出したストーリーを学生時代に友人らは喜んで読んでくれたが、今のイギリス社会には一般的に広くは通用しないのか。自分は挑戦がしたくない」とし作家活動と同時にジャーナリストとして活動することになります。当時彼が記事を書いていたのはネイチャー誌でオカルトや宇宙に関する内容など自由に寄稿でき、この仕事に大変やりがいを感じることができました。

<豊作期>

(※画像はイメージです)

ウェルズが最も多くの作品を執筆し、世に出すことが出来たのは1890年代から1900年代初頭にかけてでした。学生時代から構想を練っていた1895年の「タイム・マシン」をはじめ、1896年の「モロー博士の島」や1897年の「透明人間」、1898年の「宇宙戦争」など現代でも多くの人に愛読されている作品を数多く輩出することができました。この当時彼は非常に有意義な時間を過ごしており、ケント州のサンドゲイトに大きな家を購入し、他の文豪や出版社の人々と交流を深めていきました。

(※ジョージ・バーナード・ショー)

イギリスでは産業改革が進み、数多くの作家や画家たちが社会主義団体に参画していましたが、ウェルズもまた「やもめの家」の作者であるジョージ・バーナード・ショーらとの親交があったため、彼らから政治学や教育学について話を聞き共にフェビアン協会で活動を進めていきます。その経験もウェルズの思想である主権国家や民主主義反対の社会主義を確固たるものにし、戦争根絶を訴え書籍の売上を数々の基金に寄付しました。母性保護基金や糖尿病患者協会の活動を支援し、自身も肺や心臓が弱く糖尿病でもあったことから弱者を応援すべく人権宣言などの運動にも参加していきました。

<結婚と闘病>

ウェルズは1891年に最初の結婚をしますが長くは続かなかったため、作家活動に専念しつつ1895年に教師時代の教え子であったアミー・キャサリン・ロビンズと再婚しました。またアミーとの間に長男のジョージ・フィリップと次男のフランク・リチャードが生まれ、それからの人生は多くの人脈を作り社交の場を楽しむなど生活はとても華やかなものでした。

ハーバート・ジョージ・ウェルズが闘病していたことは、彼の慈善活動からも明らかでしたが、生涯を通じて肺病や心筋梗塞、糖尿病、腎臓病など多くの病気と闘い、1946年8月13日にロンドンの自宅で肝臓がんにより逝去しました。

公式サイト

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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