パウル・クレー:経験から画法を何度も変更し、独自の画風を確立

パウル・クレーはスイスの画家及び美術理論家です。父親が音楽教師で母親も音楽学校で声楽を学んでいたため音楽と関わりやすい環境で育ちました。独特な作風で表現主義や超現実主義などの派閥に属しておらず、初期は風刺的な銅版画やガラス絵などを試み、またアカデミックな手法の油絵も残しています。第一次世界大戦を経験し友人の死に衝撃を受けたことがきっかけとなり抽象画を手掛けるなど作風が変化していきました。

<音楽と美術に恵まれた才能>

パウル・クレーは1879年12月18日にスイスのベルン近郊にあるミュンヘンブーフゼーで誕生し、彼が1歳のころに家族でベルン市へ移住します。ベルンは自然豊かで美しい街並みが残る中世都市で、彼は高校卒業までこの地で過ごしました。また、彼の父親はベルンの教員養成学校で半世紀にわたり音楽教師として勤務し、母親は南フランス出身で音楽学校の声楽を学ぶという音楽一家でした。

そんな音楽家庭で育ったクレーは早くからバイオリンに親しみ、11歳ですでにベルンの州立オーケストラに籍を置くなどバイオリンの腕はプロ級でした。彼の音楽に対する深い理解は、バッハやモーツァルトらの古典音楽からストラヴィンスキーやヒンデミットらの現代音楽にまで幅広く及んでおり、クレーの作品の画題には「ポリフォニー」や「フーガ」といった音楽用語が用いられているものもあります。

フランス語圏スイス出身の祖母は美術の才能に恵まれた人で、クレーは最初の絵の手ほどきを彼女に受けたといわれています。クレー少年の夢見心地であったりグロテスクであったりする子供らしい悪戯書きが大切に保管されており、才能を垣間見ることができます。彼は父親の希望で、主にフランス語やギリシア語などの文学を教育科目としているベルンの中等教育機関を卒業しました。

<妻と息子に支えられた無名時代>

19歳になったクレーはプロの芸術家を目指しパリと並ぶ芸術の都であったミュンヘンへと旅立ちます。そして2年後に美術学校に入学し象徴主義の大家であるフランツ・フォン・シュトゥックの指導を受けますが、クレーには美術学校の画一的な指導が合わず1年後に退学します。その後はイタリアを半年間周遊し、ルネサンスやバロックの絵画や建築を見て回るなどして多くを学びました。

1906年にはリリー・シュトゥンプフと結婚し翌年に息子のフェリックスが誕生します。無名の画家であったクレーは収入源が乏しく、妻のリリーがピアノ講師として働き生活を支え、彼は育児や家事を担っていました。フェリックスは後にパウル・クレー財団を設立しスイスでクレーの作品の保存に尽力します。

<抽象化への転機>

1906年にクレーはミュンヘン分離派展に銅版画を出品し、1910年にベルンで個展を開きます。当時はセザンヌやゴッホらの作品に影響を受けつつ独自の道を模索していました。その後画家のワシリー・カンディンスキーやフランツ・マルクと出会い、特にマルクとは親友となり、彼が立ち上げた青騎士展に参加しました。この頃には光と色彩のフォルムや線描についての探究が始まり、線描については輪郭のみにより描写の単純化が進みます。そして次第にその輪郭の線そのものが重視され自由な動きを見せる絵画を描くようになり、抽象化した独自の画風が確立していきます。

(※ライナー・マリア・リルケ)

1914年にクレーはチュニジアに旅行したことで鮮やかな色彩に目覚め、作風が更に変化していき色彩豊かな作品を多く残すようになります。そして彼の表現幅が飛躍的に拡大し、1915年に作家のライナー・マリア・リルケと出会いお互いの作品に強く関心を抱くようになります。

第一次大戦後の1919年にミュンヘンの美術商であるゴルツと契約を結び、翌年にはゴルツの画廊で大回顧展が開かれました。さらにエッセイを発表するなど現代美術の最前線に位置する画家の一人として活躍するようになり、ニューヨークやパリで個展を開き国際的知名度も上がっていきました。

<ナチス弾圧と亡命、難病>

1931年から1933年までクレーはデュッセルドルフの美術学校で教授職に就きますが、ナチス弾圧により身の危険を感じ、妻の勧めで故郷のスイスに亡命します。しかしドイツの銀行口座が凍結したことにより貧困に陥り、そのうえ原因不明の難病である皮膚硬化症が発病したことで晩年の5年間は闘病生活の中で制作活動を行うことになりました。また、1937年には画家のパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックがクレーを訪問したという手記が残っており、意欲的に創作に励んだクレーは1939年からの1年間で約1200点を描き上げました。

クレーは「芸術は見えないものを見えるようにする」と主張しており、キャンバスに残した絵画はとても少なく、日常的に使用する新聞紙や布などに描いた小さな作品が数多くあります。そして1940年にクレーはロカルノ近郊のサンタニェーゼ療養所に入り1940年6月29日に60歳でその生涯を閉じました。

ベルンのショースハルデン墓地にあるクレーの墓石には、「この世では、ついに私は理解されない。なぜならいまだ生をうけていない者たちのもとに、死者のもとに、私はいるのだから」というクレーの言葉が刻まれています。

出典:(Wikipedia、パウル・クレー):(6,2021)

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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