フランシス・ベーコン:知識は力なり

フランシス・ベーコンはイギリスを代表する哲学者、神学者、法学者であり、またルネサンス期やエリザベス朝に活躍した政治家でもあります。主な著書物は「学問の進歩」や「ノヴム・オルガヌム」です。また「知識は力なり」という言葉を残しており、物事を実際に試すことや経験することこそが重要だと考え、科学的研究法として個別的な事例や具体例から一般的法則や普遍的な事実を導き出そうとする帰納法を提唱したことでも知られています。他にも2進法の元になる原理の発見や食料保存に関する研究も行っていました。

<自然科学に興味を持ち法廷弁護士の資格を取得>

フランシス・ベーコンは1561年1月22日にロンドンのストランドにあるヨークハウスで貴族の上流階級家庭の息子として生まれました。父親はエリザベス朝において貴族院の議長を任されており、母親は女王エリザベス1世の側近である初代バーリー男爵ウィリアム・セシルの妻であるミルドレッド・クックの妹という王族家系の身分でした。

プロテスタント(カトリック教会の教派)でかつ才能にあふれる母の教育でベーコンも熱心なプロテスタントとして育ち、父がハートフォードシャーのセント・オールバンズで購入した土地で建てたゴランベリー・ハウスで生活するうちに、豊かな自然に囲まれた環境で生きることの素晴らしさを体感するようになります。自然を知るには自然に仕えることという名言を残していますが、自然科学に興味を示したベーコンは自然こそ恵みであり、人はこれを壊してはならないと強く主張しました。また、この時代はガリレオ・ガリレイなどが活躍し科学の躍進が凄まじい時代であり、科学や文明により自然の恵みを破壊することを常に人間は配慮しなくてはならないと論じたのでした。

ベーコンは1573年に父の計らいで兄のアンソニーと共にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学します。そして学寮長で後にカンタベリー大主教になるジョン・ホイットギフトの手ほどきを受けます。そこでは知識を積み、常に冷静で公平な判断をすることや確かな証拠に基づく論を展開する術を学び、ベーコンの人格の基盤となっていきました。さらに自然を尊重するとともに人間が行う行動の指針として法律学を学ぶ上でも役立ち、次第に弁護士になることを考え始めます。

ケンブリッジ大学では興味のある授業だけを受講し、在学していた期間は2年で学位を取得せず中退します。そして法律学や弁護士の道を考え始めたベーコンは兄とロンドンで法律を学び、1582年に法廷弁護士の資格を取得しました。

(※画像はイメージです)

<4つの思い込みと経験論>

ベーコンは人間の経験における誤りや思い込みについて4つのイドラ(先入観)を述べており、人間の経験において真実から遠ざけるものとしてまとめています。その4つとは偏見、限界、会話、権力で、それらをまとめると「人間は偏見を持ち、人を自分の見方で決めつけてしまう。それこそ謝りで自身の経験には限界があり、全てを経験できるわけではないことから正しい判断をするには足りないことを知っておくべきだ。また、人々がする会話は人を介すごとに真実から遠のく。そして権力によって示されるものには誤りが生じることを心得ていなければならない。」という考えです。

それらが正しい判断や知識を習得する上で人間にとって邪魔になるということを述べています。また、経験論を論じたベーコンは人間が生まれつき持たない知識は、経験を積み上げることで身に付けていく他ないということを主張しました。

<父の死と金銭難により政界進出>

1579年にベーコンの父が肺炎を悪化させこの世を去ることになり、ベーコンは大きな悲しみの中で生きることになります。父は息子たちに残す財産こそありませんでしたが、ベーコンにとっては自分の生きる道をサポートしてくれた大切な存在でした。

ここからベーコンは弁護士としてではなく、政治家としてこの世に生きた証を残したいと考え始めますが、政治家になるには多額の出資金が必要で当時の彼にはそのような余裕は一切なく、浪費家であったこともあり借金を抱えることになります。自身の考えや主張がはっきりとしていた彼は政治家として主張する一方で書籍でも広く世間一般に自身の論理を展開しようと考えました。

1585年に最初のエッセイである「時代の最大の誕生」を出版し、その後も複数の書籍出版に関わり、人間の堕落や言い訳について鋭く切り込むとともに権力を保持してもしなくても学ぶ姿勢については常に真摯でなければならないと綴っています。政治家や議員になるステップとして、1581年にレスター派のベッドフォード伯爵フランシス・ラッセルと親交を深め、彼の権力の及ぶコーンウォールのボッシニー選挙区から出馬を決意し、見事選出されて庶民院議員となりました。

その後も同様に親交を深めた貴族たちからのサポートを得て1584年にはウェイマス=メルクーム・レジス選挙区から出馬し選出されました。さらに1587年に政府による特別税を徴収するための委員会に参加し、1588年には法案審議の準備委員会設立メンバーとなり少しずつ政治家としてのポジションを高めていきました。

<結婚生活と晩年>

ベーコンは1605年に「学問の進歩」を出版し、経験論や帰納法の他にも机上の空論では人間の知識の進歩は無いということを観察や実験を元に合理的に物事を捉えることの重要性について述べました。

私生活では1606年に友人でロンドン市参事会員であるベネディクト・バーナムの娘アリスと結婚します。しかし経験論を論じ、何事も自身が経験することで知識を積むという主張のベーコンは、この結婚に関して1612年に随筆の一部に「妻子を持つことは事業において邪魔なことだ」と述べており、まさに結婚の経験からその重荷を感じていたのでしょう。彼には多額の借金があったため、ロンドン市参事会員のベネディクト・バーナムの資産をアリスが持参することを目的とした結婚であり、そこに確かな愛があったかどうかは定かではありません。自身の遺書にも妻への遺産相続の権利を否定していました。

晩年のベーコンはセント・オールバンズの領地で執筆活動を行いながら穏やかに余生を送ります。1626年に鶏肉をどのように長期保存するかという研究で、鳥肉に雪を詰め込んで冷凍する作業中に悪寒に襲われ、近くのアランデル伯爵であったトマス・ハワードの屋敷で療養しますが、体調は回復せず同年4月9日に気管支炎を起こして65歳で亡くなりました。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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