(Public Domain /‘Czech writer Franz Kafka’ by UNKNOWN. Image via Wikimedia commons)

フランツ・カフカ:毎日ラブレターを送る情熱的な作家

フランツ・カフカはチェコのプラハ出身のユダヤ人作家です。当時プラハにはチェコ人とユダヤ人が共住していたためドイツ語で作品を残しています。彼は法律を学び保険局に勤めながら執筆活動を行い、長編小説や短編小説、日記および恋人などに宛てた膨大な量の手紙から著作しました。代表作には「変身」、「審判」、「城」が挙げられますが生きている間には完成せず、カフカが亡くなった後友人のマックス・ブロートが編集して世に出しました。

<家族構成と幼少期>

フランツ・カフカは、1883年7月3日にオーストリアハンガリー帝国領のプラハに誕生しました。彼には弟が2人いましたがともに幼くして亡くなっており、3人の妹であるガブリエル、ヴァリー、オティリーとは一緒に遊ぶことはなく孤独な幼少期を過ごしました。両親が商人で多忙であったため時間を多く過ごすことはありませんでしたが、家政婦や乳母が出入りしておりカフカが文学に親しみチェコ語を話せるようになったのはその乳母のおかげでした。

(※フランツ・カフカ博物館)

<未完で孤独の三部作>

カフカの作品はほとんどが短編で、現実に希望を感じることが難しい人生を送った彼にとって物語を書く時間は自分の妄想や空想の中に入り浸ることができ、とても充実した時間でした。彼は1915年から1917年に一人暮らしをしており自分の部屋で短編の制作に熱中しました。

最初に書かれた「失踪者」は1911年頃から執筆を開始し、ヨーロッパからアメリカへ移住するドイツ人の少年カール・ロスマンの放浪記となっています。その少年は失踪者となりますが未完のままであり、その結末は読者に委ねられています。また「審判」はカフカの死後ドイツの出版社から世に出されていますが、彼が31歳の頃から書き始め彼の婚約者であったフェリーツェ・バウアーという女性と別れた直後のものです。彼のその状況を想像しながら読み進めると非常に感慨深い作品でもあり、完成させられたのではないかと期待をしてしまう思いも否めません。

カフカは1917年から結核を患い1922年に療養していた先で「城」を執筆し、長編作品では罪と罰、父と息子、法、死の孤独などの共通するキーワードが浮き彫りになりました。彼の死後に作品を出版したマックス・ブロートはカフカの人生を鑑み、これらを「孤独の三部作」と名付け拡販活動に尽力しました。

<ラブレター>

カフカは見栄えも良い顔立ちで文才にも恵まれており、恋愛においてもその魅力を十二分に発揮していました。成年期から多くの恋愛を経験することになりますが、その中で随所に出てくるキーワードがラブレターです。

1912年にカフカは自身の初めての著書が出版されることを楽しみにしており、その打合せで友人の家に向かいました。最初の作品集は「観察」というタイトルで店頭のどの位置に配置してもらえるかを交渉しなければなりませんでしたが、友人のブロートがカフカの相談に応じ、無事に書棚の良い位置に並べてもらえることになります。その時にブロートの家に来ていたタイプライターの営業者であったフェリーツェ・バウアーに恋心を抱きます。彼女は4歳年下のユダヤ人で気さくな人柄であったため、カフカはすぐに惹かれラブレターを送り、彼女もそれに応える形で2人の文通が始まりました。

フェリーツェのところへ往訪することもあり、カフカと彼女は恋人関係になります。彼にとって彼女との文通は非常に刺激的で心躍る時間でしたが、のちに彼女との将来を考えるとそこに未来が描けず、遠方にいる彼女の家族に会うことになると、執筆活動の妨げになるのではと後ろめたく感じるようになりました。結婚に対して前向きになれないまま彼は交際にさえ躊躇するようになり、友人を交えてフェリーツェに別れを告げることを決めますが、その友人こそが次の恋人となるグレーテ・ブロッホです。

カフカはフェリーツェとの関係を彼女の友人であるグレーテに相談しているうちに、フェリーツェよりも自分を理解しようと努めてくれるグレーテに向けてラブレターを書くことが快感となり夢中になっていきます。グレーテとは一時期頻繁に文通を交わし親密な関係となっていますが、婚約や結婚に発展しなかったのは彼がフェリーツェとの結婚に後ろ向きだったからでしょう。

ところが1917年にそのフェリーツェと再会するや否やカフカは再度婚約を検討します。彼は昔の恋心が再び燃え上がり彼女と2度目の婚約を交わし、2人は記念写真を撮影するなど夫婦のような時間を過ごしました。しかし、自分の仕事や執筆活動も疎かに出来ない彼は無理がたたり喀血し、肺結核と診断されそれを理由に再び婚約を解消しました。

結核を発症したカフカは1917年9月に長期休暇を取り、療養の為に妹のオットラが農地を借りていた小村チェーラウに移り滞在します。この頃は妹に身の回りの世話をしてもらいながら共に過ごし、気兼ねない妹との生活に安堵していました。1918年にカフカはプラハに戻りますが、体調が優れないまま療養と復帰を何度も繰り返し、年末にスペイン風邪に罹ったことで治りかけていた肺は再度悪化してしまいました。医師の診断に沿って療養しますが、シュレーゼンの保養地に行くことが決まり翌年4月まで滞在することになりました。

カフカはここで新たな恋人となるユーリエ・ヴォリツェクと出会います。彼女は貧しい家柄に生まれ苦労をして育ったため、その健気な姿や経験談を見聞きするたびに惹かれていきます。彼女とは結婚を考えられると父に告げますが、彼女の家柄に納得が出来なかった父はこれに反対し関係はますます悪化します。この経験は著書で未完の長編三部作に生きてくることになります。

カフカは1920年にチェコ人のジャーナリストで翻訳家のミレナ・イェセンスカーと出会います。ユーリエとの関係は続いていましたが進展はなく、ミレナがユダヤ人の夫を持つ人妻だったことや、カフカの「火夫」をチェコ語に翻訳したいというミレナの強い申し出に押され親しくなりました。ミレナへもラブレターを送り文通を通じて彼女の魅力に心惹かれて7月にユーリエとの婚約を解消しました。しかしミレナはカフカとの関係は手紙の中だけに留めるべきだと考え、夫と別れることは考えられないとカフカに告げたためそれ以上の関係には発展しませんでした。

1923年にバルト沿岸のミューリツで人生最後の恋人となるドーラ・ディアマントと出会います。ドーラはポーランド出身の女性でミューリツのユダヤ民族の施設に勤めていました。その後、幾度かの文通でのやり取りがありベルリンで再会後、その地で共同生活を始めました。敗戦により終戦したベルリンはすさまじく荒廃しており、カフカ自身も働くことが出来ない体になってしまったことで生活が苦しくなり、彼女と友人のブロートに付き添われプラハに戻ります。そして1924年6月3日に40歳でこの世を去りました。

出典:(Wikipedia、フランツ・カフカ)(7,2021)

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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