ヘンリー・ムーア:イギリス近代美術を世界に広めた抽象彫刻家

ヘンリー・ムーアは20世紀のイギリスを代表する芸術家及び彫刻家です。彼はヨークシャーのキャッスルフォードで生まれ、大理石やブロンズを使った大きな抽象彫刻を制作したことで多くの人に知られています。イギリスの美術界から厚く信頼され、多大な支援を受けてきた彼はイギリス近代美術を世界に広めた第一人者としてその期待に貢献しました。

<炭鉱夫の父に反対され遠回りするも成功したムーア>

ヘンリー・ムーアは1898年7月30日にイギリスのヨークシャーで8人兄弟の7番目に生まれました。彼の父親は炭鉱夫で、キャッスルフォードのウェルデール炭鉱の下級のマネージャーから苦労を重ねてそのリーダーである鉱山技師になったという人物でした。ムーアの幼少期は貧しいながらも大家族の中で愛と優しさに満ちた幸福な日々を送りました。父親は炭鉱夫としての生活が重労働な上に少ない給料であったことから、子どもたちには少しでも裕福でゆとりのある生活を送ってほしいと願い、早々と高度な教育を受けるように家計を切り詰めるなど教育に力を入れていました。

ムーアは町中の芸術や美術に触れるうちに創作活動を行いたいと考えるようになりますが父親に強く反対されます。父親自身も音楽や文学に興味や関心を抱いていましたが、どれも独学で身に付けたものであったため、子供たちには専門のプロから公的な教育を受けさせたいと考えていました。

ムーアが彫刻家になると決意したきっかけは、11歳の時に中学校で粘土や木を使って美術製作をしたことです。美術の先生に作品を褒められたことが嬉しく、自分に美術の才能があるのではないかと考えていました。しかし、当時の彫刻家という職業は不安定であり収入が明確ではなく、両親は我が子の希望する道を理解して素直に応援してあげることができませんでした。

一方ムーアは両親の強い反対を押し切ることができず、これまでたくさんの愛情を持って育ててくれた両親の気持ちを冷静に考えることができたため、就職を決意し教師として働くことになりました。しかし1917年に第一次世界大戦に徴兵され、ライフルの部隊に配属されると彼が最も若い兵士であったため、雑用を含む様々な任務に苦闘します。そしてその戦いの中で彼は毒ガスにより病に罹り母国に帰還し療養します。回復が早く経過が良好だったため、終戦までの期間は軍の講師として過ごすことになりました。

ムーアは戦後、自身の身に危険が迫ったことやライフル兵としての経験をしたことにより再度自分の夢に挑戦することを決め、現在イギリス北部唯一の芸術大学となっているリーズ・アーツ大学の彫刻科の第一期生となります。彼の才能と技術を認めた大学は彼のために彫刻制作専用のアトリエやスタジオスペースを与え、彼は大学からのサポートに感謝し制作活動に励みました。

この頃、ムーアはイギリス出身の芸術家であり彫刻家のバーバラ・ヘップワースと出会い、彫刻芸術を極める同志として互いを高め合い抽象彫刻の先駆者として切磋琢磨します。そして大学を卒業すると彼には野外用モニュメントの製作オーダーが殺到し、当時の彫刻家や美術家としては珍しくすぐに豊かな生活が送れるようになりました。それでも彼は質素な生活を送り、その財産のほぼ全てを後のヘンリー・ムーア財団の基金として寄付しており、後世の教育美術や芸術の普及支援に使われています。

<マネキンに空けた空洞>

ムーアの作品はまるで粘土のようなどっしりと、またぽてっとした抽象的なフォルムが特徴で、代表作は「穴が貫通している人体の横たわる像」です。彼は古代文明からインスピレーションを得て、チャック・モールの石膏模を参考に抽象的な像の制作を行います。そしてマネキン(トルソ)に穴を開け、銅像のモデルとして新作を生み出していきました。

ムーアは主に公共施設からの受注を受けており、現在も世界中に数々のブロンズ製の抽象的なモニュメントが設置されています。1983年の「着衣の横たわる母と子」や「横たわる像」など女性をモチーフにした像が多く、彼の作る人体は穴が開いているか空洞を含んでいることが特徴です。自然の山並みや丘のふくらみなどを人体に模写していたかのように野外の景色と自然に融合する作品を数多く残しています。

<イギリスの彫刻を世界へ>

ムーアの制作物のモチーフは男性よりも女性の肉体のやわらかさを表現しているものが多いことに気付きます。曲線美へのこだわりとして、その特徴を表現するのは男性よりも女性であるという考えから多くの作品は女性がモデルとなっています。彼が父親になったときに制作した「ファミリー・グループ」は娘のメアリーが誕生し、彼とその家族3人を表現したとされています。メアリーはこの数年前に亡くなったムーアの母親の名前を譲り受けました。彼は自分の母の死と娘の誕生を運命的に感じており、新しい家族への敬意と思いやりの心を一層強くしていったことから女性と子どもや母と子どもの像を数多く作りました。

また、木漏れ日や自然の景色の中に母子や家族愛が溶け込み、自然の中に人間が存在することを大切にできる広場となるように生命の神秘を表現していきました。

ムーアは1948年にヴェネツィア・ビエンナーレ展で国際彫刻賞を受賞し、1955年にはコンパニオンオブオーナ勲位と1963年にメリット勲位を受賞しています。そして彼は1986年8月31日にハートフォードシャーの自宅に於いて88歳で亡くなり、遺体はセントポール寺院に葬られています。

出典:(Wikipedia、ヘンリー・ムーア)(7,2021)

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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