ミケランジェロ・ブオナローティ:肉体美の巨匠

ミケランジェロ・ブオナローティは筋肉の微細な動きを繊細に表現する優れた才能と創作能力を兼ね備えた芸術家です。現代でも変わらず高く評価されているルネサンスの三大巨匠のうちの一人で、1963年に発行された10000リラ紙幣にはミケランジェロの肖像が描かれています。代表作はシスティーナ礼拝堂のフレスコ画や「ピエタ」、「ダヴィデ像」などの彫刻があります。ローマ法王やカトリック教会など裕福で権力のある人物から依頼を受け、リアルに近づけ理想の肉体美を創り出し、強さを兼ね備えた芸術品を世に送り出しています。また、生きている間に伝記が出版された最初の西洋美術家で、絵画だけでなく彫刻や建築においても偉大な業績を残しました。

<故郷は芸術が栄えた全盛期のフィレンツェ>

ミケランジェロは1475年3月6日に現イタリアにあたる場所に存在した国、フィレンツェ共和国のトスカーナ州にあるカプレーゼで生まれました。先祖には芸術家はおらず政治家や貴族の家系であり銀行を営んでいたこともありました。しかしミケランジェロが誕生する頃には財産が底をつき、父親がカプレーゼで小さな会社の事務職をして食いつないでいる状況でした。ミケランジェロが誕生してすぐにブオナローティ一家はフィレンツェに引っ越し、彼はこの地を故郷としました。

ミケランジェロの父親は学問を学び大成して欲しいと願いますが、芸術の活気溢れるフィレンツェの地においてミケランジェロは、その刺激と影響を受け画家を志すようになりました。全盛期のフィレンツェで活躍していた芸術家はレオナルド・ダ・ヴィンチであり、2人には20歳ほどの年齢差がありますがのちに良きライバルとなります。

<バロック時代の流行・技術を先取りしていたミケランジェロ>

ミケランジェロを称賛する論評の中でしばしば話題となるのが、彼の作品の躍動感やリアリズムが後のバロック時代を先取りしていたのではないかということです。バロック時代(バロック様式)は16世紀から18世紀前半に広まった芸術や美術ですが、ダイナミックで力強い表現が主流であったため、ルネサンスの頃からミケランジェロの作品の様式と似通っていました。ルネサンス美術自体は整った均一を保つ絵画が主流であったため、当時ミケランジェロがその部分を逸脱していたと言えます。

(※ギルランダイオの最後の晩餐)

そんなミケランジェロは13歳で宗教画を描く人気画家のドメニコ・ギルランダイオに弟子入りします。ギルランダイオの主な作品は「最後の晩餐」や「イエスの洗礼」で、彼は早い段階でミケランジェロの才能に気付きます。そして15世紀のフィレンツェで最も権力のあった政治家で多くの芸術家を支援したメディチ家の家主であるロレンツォ・デ・メディチにミケランジェロの作品と彼自身を紹介し、ミケランジェロの作品を世に出すことでルネサンスの文化を繁栄させました。

このようにギルランダイオやメディチ家のお抱えになることで深い関わりや人脈を築き、ミケランジェロはプラトン・アカデミーなどの異文化業界の人脈も広げることができました。そのような環境から彼は美術や文化、芸術への道を切り拓き、その後の制作活動に活かすことができました。

(※ピエタ)

<絵画よりも彫刻こそがルネサンスの象徴>

当時ミケランジェロは、ルネサンスを象徴する作品として自分が残すべきものは絵画か彫刻かどちらなのかを考えていました。絵画はあくまでも入門としてそれを具現化できるのは彫刻だという考えが強く、自分は彫刻家であると公言しています。そんな彼の作品には「ダヴィデ像」や「ピエタ」などがあります。

(※ダヴィデ像)

ミケランジェロは彫刻を制作するのに数か月で完成させた作品は少なく、それぞれ1作品に何年もの時間をかけていました。彼が手掛けたローマ法皇ユリウス2世の「ユリウスの墓」を制作する際には、同時に多くの仕事を任されていたため墓の完成までになんと40年以上もかかっています。また彼が制作した「ダヴィデ像」はフィレンツェ共和国のシンボルとなっており、レプリカは今もミケランジェロ広場にあります。その当時、大聖堂造営局からヴェッキオ宮殿前に移動されましたが、屋外に置かれていることもあり天候や暴動などの影響で保管状況が悪くなってしまうため、現在はフィレンツェのアカデミア美術館に収蔵されています。

(※天地創造)

<絵画でも建築でも緻密に研究>

絵画ではシスティーナ礼拝堂の天井フレスコ画「天地創造」や「最後の審判」、パオリーナ礼拝堂の「聖ペテロの磔刑」といった作品を残しています。ミケランジェロは建築でも才能を発揮し、サン・ロレンツォ教会の設計やユリウスの墓、サン・ロレンツォ大聖堂の付属ラウレンツィアーナ図書館、メディチ家礼拝堂の新聖具室などを建設しました。

ミケランジェロは、71歳から建設中であったサン・ピエトロ大聖堂の建築主任となり無給で作業に尽力しますが、17年後の1564年2月18日にこの完成を待たずに88歳でこの世を去りました。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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