(Public Domain /‘Johann Wolfgang von Goethe’ by Joseph Karl Stieler. Image via Wikimedia commons)

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ:若くして求めれば、老いて豊かである

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテはドイツ出身の小説家です。彼は多才な人物であり劇作家、自然科学者、政治家、法律家でもありました。

(※ファウストの一節)

また、代表作は『若きウェルテルの悩み』や『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、叙事詩の『ヘルマンとドロテーア』、詩劇の『ファウスト』などがあり、広い分野で貴重な作品を世に送り出しました。

<6か国語を操る幼少期>

ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテは1749年8月28日にドイツ中部のフランクフルト・アム・マインの裕福な家庭に生まれました。ゲーテの祖父であるフリードリヒ・ゲオルク・ゲーテはフランスで仕立て職人としての修業を積んだ後、フランクフルトで旅館経営と葡萄酒の取引で成功し大きな財を成しました。

ゲーテは3歳の時に私立の幼稚園で読み書きや算数などの初等教育を受け、5歳になると寄宿制の初等学校に通います。しかし7歳のときに天然痘にかかってしまったため実家に戻り、それ以降は父親が家庭教師を手配し、語学や図画、乗馬、カリグラフィー、演奏、ダンスなどを学ばせました。父親から早期教育を受けた結果ゲーテは、6か国語を読み書きできるほど語学力の高い優秀な少年となりました。6か国語とは英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語です。

(※ロビンソン・クルーソー)

<学生時代と自然科学への興味>

読書は全ての礎とも言われますが少年時代のゲーテもまた読書を好み、たくさんの本を読みました。フェヌロンの『テレマックの冒険』やダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』などが愛読書でした。

1765年にゲーテはゲッティンゲンで文学を研究したいと思うようになりますが、法学を学ばせて息子を出世させたいという父親の意向もありライプツィヒ大学の法学部に進学することを決めます。ところがゲーテは「フォイアークーゲル」という名の大きな家に二間続きの部屋を借り、最新のロココ調の服を着て都会風の生活を送っていたため勉強が疎かになっていました。この時期、ゲーテが通っていたレストランの娘で年上のアンナ・カトリーナ・シェーンコプフに恋をし、『アネッテ』という詩集を編みます。そして2人は付き合うことになりましたが、都会的で洗練された彼女に対するゲーテの嫉妬心が、2人の関係に溝を作ることになり破局を迎えました。

その後、ゲーテは3年ほどライプツィヒ大学に通いますが、結核に冒されてしまったため退学し、故郷であるフランクフルトに戻って1年半ほど実家で療養することになります。

ゲーテはこの時に自然科学に興味を持ち始め、実験器具を買い集めて自然科学研究にも精を出します。彼は地質学から植物学、気象学まで自然科学にも幅広く成果を残していますが、既にこの頃にその基礎を作り上げていました。さらに、文学活動や公務の傍らで人体解剖学や植物学、地質学、光学などの著作や研究も残しています。また、ゲーテは20代のころから骨相学の研究者であるヨハン・カスパー・ラヴァーターと親交があり、1784年にヒトにはないと考えられていた前顎骨が胎児の時にあることを発見し比較解剖学に貢献しました。

<恋多き男が生んだ詩>

ゲーテは1775年にカール・アウグスト公からの招待を受け、ヴァイマルに移り住みます。ゲーテは短期滞在としていましたが、結果として晩年まで永住することになります。当時のヴァイマル公国は貧しく小さな国で、アウグスト公の父親であるエルンスト・アウグスト2世が早々に亡くなっていたこともあり、18歳のアウグスト公はゲーテを兄のように慕っていました。また、ゲーテ自身も居心地が良いと感じ、2人は勉学以外の狩猟や乗馬、絵画、美術、ダンス、演劇など様々な行事や体験をともに楽しみました。しかも彼は王妃や貴族たちからの人望も厚く、多くの理解者に囲まれた環境であったため、この地で生きていくことを願うようになったのです。

また、この地にとどまったもうひとつの理由がヴァイマル公国のフォン・シュタイン男爵の妻であるシャルロッテと恋仲であったことでした。彼女はゲーテよりも7歳年上で7人の子供の母親であり、周囲を和やかにさせる雰囲気とやさしさ、そして美しさを兼ね備えた魅力的な女性でした。彼はそんな彼女と文通や往訪を重ねていき、やがて2人は結ばれ、その関係は12年も続くことになります。彼はこの恋愛を多くの作品や詩に残しました。『イフィゲーニエ』や『タッソー』も彼女との関係から誕生したもので、ゲーテを研究する多くの人々が彼女のことも調べ、作品との関係や2人の恋仲について推測しています。

<フリーメイソンのメンバーであったゲーテ>

ゲーテは1780年に秘密結社フリーメイソンに入会したとされています。フランクフルトのフリーメイソンロッジで入会手続きをしたという記録や、4年後にゲーテが書いた『秘密』という叙事詩にこの団体をモデルとした秘密結社を登場させていることからこのことは事実だと言えるでしょう。彼がフリーメイソンに肯定的だったのかはわかりませんが、彼の日記からこの団体を恐れる記述が発見され、のちに狂気のような組織であったと触れていることから、疑心暗鬼に陥っていたのではないかと言われています。

(※ヴァイマル劇場)

一方でゲーテは日々ヴァイマル公国の政務にも関わり、1782年には神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世によりヴァイマル公国の宰相という役職を与えられます。このことで貴族を表す「フォン」を名前につけ、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテと名乗るようになりました。やがてゲーテはヴァイマル劇場の総監督としてシェイクスピアやカルデロンの戯曲をまとめあげ、脚光を浴びました。

晩年のゲーテは腎臓を患いながらも創作活動に勤しみ、数々の作品を残しました。そして1832年3月22日に82歳でこの世を去りました。

出典:(Wikipedia、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)(7,2021)

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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