ヨハン・セバスティアン・バッハ:音楽を愛し、魂が魂に話しかける音楽こそ翻訳不要の世界語である

ヨハン・セバスティアン・バッハは18世紀にドイツで活躍した作曲家及び音楽家です。 バロック音楽の代表的な作曲家の一人であり鍵盤楽器の演奏家でもあります。また、即興演奏を得意とし、後に西洋音楽の基礎を築いた人物です。彼の家系にはオルガニストや教師など音楽に関わる職に就く者が複数いましたが、一族の中でも彼は最も有名であり、後世においても親しまれる定番楽曲を数多く残しました。

<音楽愛好一族に生まれ、歌や楽器に親しみ実力を発揮>

ヨハン・セバスティアン・バッハは1685年3月31日にドイツのチューリンゲン州にあるアイゼナハで生まれました。バッハ家は音楽家系で、父親のヨハン・アンブロジウスはヴァイオリン奏者でした。音楽や歌が大好きだったバッハは小学校の聖歌隊で歌い、放課後は親戚の家にオルガンを弾きに行くなど音楽に親しんでいました。彼は9歳の時に母親を、10歳の時には父親を亡くしており、その後は兄の家に引き取られることになります。バッハは勉学にも熱心に取り組み、1700年にリューネブルクで修道院付属学校の学費免除を受ける奨学生となりました。

18歳となり就職活動をしていたバッハは、1703年に当時の主君であり音楽や教育、芸術、福祉などに力を入れていたヨーハン・エルンスト3世の宮廷楽団に採用されることになります。世界史において画家や音楽家は宮廷に仕え、王族や貴族のオーダーに応じて作品を制作し、給料とその宮廷内での地位を得て有名になっていくという出世ルートが存在していました。バッハも例外ではなくヴァイマルの宮廷楽団でヴァイオリン奏者として活動することになったのです。

同年にバッハ一族と関係の深いアルンシュタット新教会再建において、バッハはヨハン・エフラーの代役でこの教会の美しいパイプオルガンを演奏するチャンスが訪れます。この時、バッハのオルガン奏者としての技術は目を見張るものがあり、だれの目にも明らかなほどに素晴らしく、即決でこのアルンシュタット新教会のオルガニストに就任します。

さらに、その経験を活かしてアルンシュタット新教会の聖歌隊の指導も任されました。彼がオルガニストを務めていたこのゆかりあるアルンシュタット新教会は現在バッハ教会とよばれており、地元の住民に今もなお親しまれています。また彼らはこの教会においてバッハの音楽とともに祈りを捧げています。

バッハの印象は、若くして両親を亡くした青年が音楽を愛し、親しみ、その才能を発揮して宮廷音楽家として成功した人物だと思う人も多いですが、彼にも苦い葛藤を爆発させた事件がありました。彼はリューネブルク修道院付属学校でオルガン奏者のブクステフーデから高度なオルガン奏法を学んでいました。しかし、その真面目な性格とは裏腹に彼の心の奥底にある苛立ちを露わにする事件を起こしています。

聖歌隊の指導に勤しんでいたものの指導が上手く伝わらず、成果の出ない隊員と揉め事を起こしたり、4週間の休暇の申請予定を3カ月以上申告なく延長して留守にしたりしてしまいます。さらに、乱闘事件を起こしたことで宮廷音楽家として重大問題と判断され、聖職会議にかけられたこともありました。

既にオルガン奏者として有名であったバッハは、オルガンの内部の構造にも精通していたと言われ、教会堂やホールの反響効果を精密に判別していました。各地でオルガンが新造や改造されるたびにその場に招かれ、アドバイスとともに素晴らしい即興演奏を披露していました。

<家系代々熱心なルター正統派であり魂を震わせる音楽を>

バッハの家系は代々熱心なルター正統派の宗教教育を受けていました。ルター正統派とはキリスト教のプロテスタント正統主義におけるルター派と改革派教会の二分化のうちの1つとされています。「良い行いをすることで神は人を義とするのではなく、信仰心によって神は人を義とする」という教理を説いている宗派です。つまり聖書・信仰・恵みのみという3原則に基づき、腐敗していくカトリック教会を改善しようという意思で成り立っているのです。この正統派は金儲けをするカトリック教会を批判し、シンプルに信仰による恵みを唱えていました。この教えが浸透している彼は純粋に音楽と向き合い、利害などといった邪念の無い魂で奏でる音楽を模索し続けます。

技術を磨き、名を上げていくバッハは、その人生の中でフランスの神童と言われたオルガニストのルイ・マルシャンと腕を競うことになります。マルシャンはバッハの純粋であり且つ高度な技術が織り成す巧みな演奏を目の当たりにし、その場にいることさえおこがましくなり、逃げ出してしまったという逸話も残っています。

1707年の6月にミュールハウゼンに移り住んだバッハは、この地にある聖ブラジウス教会のオルガニストとして演奏を依頼されます。ここで出会ったマリア・バルバラという女性と結婚し7人の子供を授かりました。その子供たちのうち、音楽的才能にも恵まれた長男フリーデマンと次男エマヌエルは音楽家として成功しました。バッハは息子たちと一緒に作曲を楽しみ、音楽も教育も熱心に愛を伝えたといいます。また、2度目の結婚相手であるアンナ・マグダレーナとの間には13人の子どもを授かっており、家系図を広げる子沢山な父親としての顔も持ち合わせていました。

バッハは1708年に再度ヴァイマルに戻り、ザクセン=ヴァイマル公国の宮廷オルガン奏者に任命されますが、ここでの待遇に不満を持ちすぐに辞表を出してしまいます。その後もなかなか定職に就けずにいましたが、最終的には1717年にアンハルト=ケーテン侯国の宮廷楽長となりヴァイマルを離れることになりました。

<礼拝音楽のプロデューサーとして作曲を続けるが脳卒中により死去>

バッハの晩年の1724年以降には、ライプツィヒにある聖トーマス教会のカントル(キリスト教音楽の指導者)に就任し1750年に亡くなるまでその地位にありました。そして宗教音楽を中心に様々な楽曲の制作に励み、宗教音楽の最高峰とよばれる『マタイ受難曲』もこの時期に完成させました。

1736年にザクセンの宮廷作曲家に任命されたバッハですが、1749年に脳卒中の発作により倒れ、視力を急速に悪化させます。白内障を患い霧の中をさまよっていた彼は、1750年3月にライプツィヒを訪れていたイギリスの有名な眼科医であるジョン・テイラーの手術を受けます。その後、一時的に回復するものの炎症や後遺症に苦しみ、同年7月28日に65歳でこの世を去りました。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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