葛飾北斎:数多くの改号と転居を繰り返し、生涯に3万点の作品を残した浮世絵師

葛飾北斎(1760-1849)
富士山を表富士と裏富士に分け、随所から描いた風景画集「冨嶽三十六景」で知られる、江戸時代後期を代表する浮世絵師。生涯に約3万点を超える作品を発表した。世界へも衝撃と日本文化を広めるという多くの良き影響を与え、印象派画壇の芸術家であるフィンセント・ファン・ゴッホも葛飾北斎の作品に影響を受けた。葛飾北斎の作品はこの世の天地間に存在する数限りない万物を描き、絵画業界だけでなく、工芸や音楽業界にも高く評価された。当時ではまれな90歳という長寿であった。

<部屋が汚れれば転居>

葛飾北斎を語る上で興味深いのは、改号の多さと転居の多さです。改号は30回、転居は 93回という記録が残っており、多い時では1日に3度の転居をしたといいます。片付けが苦手なことと、気分転換、飽き性、借金取りから逃げたなどを理由に、部屋が汚れる度に転居を繰り返していきました。

転居を繰り返した偉人は他にも存在し、かの有名な音楽家ベートーヴェンも数多くの転居をしたといいます。その回数は56年の生涯で79回。そのため、「ベートーヴェンが住んだ家」が観光地として複数存在しています。

葛飾北斎は90年の生涯において93回も転居をしていることから考えると、葛飾北斎なりに創作活動においてストレスを抱えない工夫をしていたのではないかとも考えられます。転居をすることで、生活環境を変え、気持ちを新たに作品創りに没頭出来たのではないでしょうか。

そんな葛飾北斎が愛した東京都墨田区に「すみだ北斎美術館」があります。葛飾北斎ゆかりの地や、葛飾北斎の生涯について、作品や歴史とその土地の雰囲気とともに美術を楽しむことが出来ます。

<器用な葛飾北斎は悩み、自分が本当にしたいことを貫いた。>

百姓の子である葛飾北斎が絵師になる以前の幼名(幼少期の呼び名)は川村時太郎(ときたろう)、その後少年期には川村鉄蔵(てつぞう)と呼ばれていました。

父親は川村氏だったという記録しか残っておらず、葛飾北斎は、5歳頃に幕府の御用達の鏡師である中島伊勢の養子となったという記録が残っています。

葛飾北斎が絵画に興味を持ったのは、6歳の頃でした。家計を支えるため、また自身の知見を広げるために、12歳頃にアルバイトを始めています。まず貸本屋で働き、手先が器用だったため、14歳になると木を素材とした彫刻を制作する版木彫りの仕事をしました。この頃、葛飾北斎自身は自問自答をし、自身が何をしたいかと考えた際、やはり絵を描きたいということに気が付きます。

その後葛飾北斎は、浮世絵師である勝川春章への弟子入りを決意します。それが1778年のことです。

勝川春章は江戸時代中期を代表する浮世絵師です。歌舞伎の役者絵も手掛けており、役者の個性を絶妙に捉えた味のある作品を生み出し人気を得ていました。

葛飾北斎はそんな勝川春章の元で浮世絵の技術を磨き、勝川春朗という名で作品を排出しました。葛飾北斎は勝川派の一絵師として、歌舞伎の役者絵の他にも西洋の絵画を学び、独自の画風を確立していきました。その傍ら雑誌の挿絵などを描いて生計を繋いでいたといいます。

1794年には勝川派を去り、葛飾北斎独自の様式を完成させようと、狂言や歌舞伎と深く関わるようになります。葛飾北斎は、他の絵師と比較すると遅咲きと言える絵師ですが、作品は数多く残しています。

<冨嶽三十六景には富士山が見えない一図がある?>

(Public Domain/‘The Great Wave off Kanagawa’ by Katsushika Hokusai. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain/‘Red Fuji southern wind clear morning’ by Katsushika Hokusai. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

葛飾北斎といえば「冨嶽三十六景」と言っても過言ではないでしょう。これは、全46枚からなる錦絵といわれる木版画です。

様々な方位や場所、季節、天気で富士山の姿を描いています。木版画と聞くと、白黒の版画を思い出しませんか。冨嶽三十六景は木版画ではありますが、色彩豊かなカラーの作品です。

手法としてはまず、木に道具を使って版下絵に沿って彫りを入れていきます。慎重に作業を進め、顔料を水で溶き、木版自体に色を付けていきます。そして、その顔料のついた木版を和紙にバレンできめ込み、木版から和紙をはがして完成です。

つまり、白黒版画の顔料をカラーにし、和紙に写したものなのです。それにしても非常に美しい色合いが写し出されており、当時の葛飾北斎の技術の凄みを感じさせられます。

冨嶽三十六景は葛飾北斎が72歳の頃に西村屋与八が、版元である「西村永寿堂」より出版しました。葛飾北斎が東海道を歩くその道中で何度も富士山をスケッチし、この作品が出来上がりました。

では、三十六景なのになぜ46枚もあるのでしょうか。諸説ありますが、この冨嶽三十六景が江戸の庶民の間で大変な人気を博した為、商売として10枚追加したのではないかといわれています。

(Public Domain/‘Kajikazawa in Kai province’ by Katsushika Hokusai. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

また、はじめの36枚は静岡県側から見える表富士が描かれており、追加された10枚は山梨県側から見た裏富士が描かれています。この呼び方は、冨嶽三十六景が流行したこの江戸時代には広く一般的に使われるワードとなりました。

(Public Domain/‘Climbing on Mt. Fuji’ by Katsushika Hokusai. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

冨嶽三十六景には、様々な場所から見える富士山が描かれていますが、中でも面白いのは、1枚だけ富士山が見えない作品です。「諸人登山」と題するこの作品には、山登りをする傘を被った人々が描かれています。そうです、この山こそが富士山なのです。富士山をズームして、外観全体像ではなく、富士山の一部を描き出しており、富士山の溝を垣間見ることが出来ます。

<巨匠としても愛された葛飾北斎>

葛飾北斎のデビュー作は「春朗期美人画」ですが、それから彼の作画期は約70年にも及びます。その長期にわたるクリエイティブな日々を終え、後世や現代も尚、世界中から愛され続けている画家です。葛飾北斎の絵手本「北斎漫画」は、現在も「ホクサイ・スケッチ」の名で世界的に広く親しまれています。工芸品の図案集としても使用されたため、工芸業界においても葛飾北斎が高く評価されたのでした。

すみだ北斎美術館
〒130-0014
東京都墨田区亀沢2丁目7番2号
TEL|03-6658-8936(営業時間:休館日を除く9:30-17:30)

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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