アール・ブリュット・コレクション:アウトサイダー・アートのコレクション

アール・ブリュット・コレクションはスイスのローザンヌにある美術館で、1976年に開館しました。この美術館は西洋における伝統的な訓練を受けていない者が制作した、「アウトサイダー・アート」の作品を展示していることで知られており、そのコレクションは世界でも有数の規模となっています。そんなアール・ブリュット・コレクションの歴史とコレクションについて詳しく解説していきます。

■アール・ブリュット・コレクションとは

ローザンヌにあるアール・ブリュット・コレクションは1976年に開館しました。ローザンヌはスイスのヴォー州に属する基礎自治体であり、フランス語圏に属する都市です。古くは古代ローマ人が軍の野営地として使用していましたが、ローマ帝国が崩壊するとサヴォイア家とローザンヌ司教の支配を受け、ナポレオン戦争後にスイス連邦に加わりました。ローザンヌには国際オリンピック委員会や国際柔道同盟、国際スケート連盟など、スポーツの国際組織の拠点が置かれているほか、若手バレリーナの登竜門であるローザンヌ国際バレエコンクールが開かれていることでも知られています。

そんなローザンヌにあるアール・ブリュット・コレクションは、アール・ブリュットの概念を提唱したジャン・デュビュッフェが蒐集したコレクションをもとに開館しました。ジャン・デュビュッフェは1901年にセーヌ=マリティーム県のル・アーブルに生まれた画家で、生家はワインの卸売りを営んでいました。幼いころから芸術や文学に興味を抱いていましたが、父親からは法律か会計というどちらかの道に進むよう求められました。そしてデュビュッフェは、一度はパリで法律を学ぶことを選択しますが、絵画への情熱を忘れることはできず、法律の勉強をしながらも私立の美術学校で絵を描くという日々を送っていました。

その後は親族から離れてワイン会社を設立。事業が起動にのると芸術への想いが再燃し、再び筆をとったのです。41歳の頃には「ただ絵を描きたい」という望みだけが彼を突き動かし、ついに会社の経営権を譲り制作活動に没頭するようになっていきました。

そんな中でデュビュッフェが興味を持ったのが、正当な教育を受けていない人物が描いた作品、すなわちアウトサイダー・アートであり、1945年にスイスやフランス各地の精神病院や監獄を訪れ、作品を収集するようになっていました。これが現在のアール・ブリュット・コレクションの中核をなしています。

こうしたデュビュッフェの活動にシュルレアリストのアンドレ・ブルトンも関心を抱くようになり、1948年にブルトンとともにアール・ブリュット協会を設立。1949年に展覧会が行われ世の中の注目を集めることに成功したものの、協会内で対立が生じ、1951年には解散してしまいます。

デュビュッフェが収集したコレクションは、友人である画家アルフォンソ・オッソーリオの勧めで、1951年にニューヨーク近郊にあるイースト・ハンプトンのオッソーリオ邸に移されることになりました。

この頃デュビュッフェは、アウトサイダーアートの収集は行っていなかったものの、1950年代末になると活動を再開。1962年にコレクションをイースト・ハンプトンからパリへ移し、1964年にアール・ブリュット協会の協会誌を発行すると、1967年にはパリ装飾美術館で収集したコレクションの大規模な展覧会が行われるようになりました。その後は1981年にパリ市立近代美術館でデュビュッフェ生誕80年記念展が開催され、1985年5月12日、パリの自宅で83歳の生涯を閉じます。

デュビュッフェは自らのコレクションを公的な施設に寄贈することを望んでいましたが、当時まだ新しかったアウトサイダー・アートを受け入れてくれるところは国内には見つからず、1971年に受け入れを表明したローザンヌ市に寄贈することになりした。ローザンヌ市は18世紀に建てられた貴族の館を改装し、そこにデュビュッフェのコレクションを運び込みました。そしてついに1976年にアール・ブリュット・コレクションは開館しました。

アール・ブリュット・コレクションではローザンヌにコレクションが移転された以降もコレクションの収集を続けており、世界各地の優れたアウトサイダー・アートが発掘されるきっかけにもなっています。

■アール・ブリュット・コレクションに作品が所蔵されている作家

アール・ブリュット・コレクションは世界有数のアウトサイダー・アートを所蔵している美術館であり、1000人近くのアーティストの作品が収蔵されているほか、現在もそのコレクションは増え続けています。そんなアール・ブリュット・コレクションに作品が所蔵されている作家の中でも、特に著名な作家について解説していきます。

(※画像はイメージです。)

・アロイーズ・コルバス

アロイーズ・コルバスは1886年にスイスのローザンヌに生まれた女性アーティストです。アロイーズが11歳の時に母親が過労により亡くなり、姉のマルグリットが母親代わりとなったものの、マルグリットは嫉妬深く、アロイーズの人生に大きな影響を与えることになります。

アロイーズは中等教育を受け大学入試資格を取得したのち洋裁の仕事に就きました。そして1911年にフランス人の還俗司祭と恋に落ちたアロイーズでしたが、嫉妬深い姉の手によってドイツの家で家庭教師の仕事をするよう強制されその恋は儚く散りました。その後は家庭教師を経て、ポツダム宮殿での仕事に就くことになり、ここで時の皇帝であったヴィルヘルム2世に激しい恋心を抱くようになります。

アロイーズの恋心は徐々に狂気的になり、ヴィルヘルム2世に対して熱烈なラブレターを書くなど、その行動は徐々に極端になっていきました。1918年に統合失調症の診断を受け、セリー大学付属精神病院に入院。その後はジメルのラ・ロジェール精神病院に転院しますが、この時医学生だったジャクリーヌ・ポレ=フォレルに芸術の才能を見出されることになりました。そしてその評判は徐々に知れ渡り、デュビュッフェの目に留まることになります。

アロイーズはその後も絵画制作を行いましたが徐々に体調が悪化し、1964年4月6日に入院していた病院で亡くなりました。

(※画像はイメージです。)

・ヘンリー・ダーガー

ヘンリー・ダーガーは1892年にアメリカ合衆国イリノイ州シカゴに生まれた作家です。4歳で母親と死別し父親と暮らしていたものの、父親が体調を崩したことにより救貧院に預けられ、徐々に精神病の兆候を見せるようになっていました。その後11歳で養護施設に移され、施設での居心地は悪くなかった、

15歳で父親が亡くなったことを知ったダーガーは、養護施設から繰り返し脱走を試みました。そして脱走に成功したダーガーは、清掃や皿洗い、包帯巻きなどの仕事をして生計を立てるようになりました。

(※画像はイメージです。)

ダーガーが1973年4月13日に亡くなった後、大家のネイサンはダーガーが執筆した「非現実の王国で」というタイトルが付けられた原稿を発見。この物語は原稿が15冊、画集が3冊、合わせて1万5000ページにも及ぶ大作であり、ダーガーが約60年に渡って執筆したものでした。「非現実の王国で」は世界一長い長編小説といわれており、アウトサイダー・アートの代表作とされています。

■おわりに

アール・ブリュット・コレクションは、正規の芸術教育を受けていないアウトサイダー・アートのアーティストたちの作品を所蔵している美術館であり、正規の芸術史で語られることのなかったアーティストたちの価値を見出したという点では、大変意義のある美術館といえるでしょう。ローザンヌを訪れた際には、ぜひ足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

公式サイト

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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