ベルン美術館:中世から近代までの作品を所蔵する美術館

ベルン美術館はスイスのベルンにある美術館で、1879年に開館しました。コレクションは5万点以上にも中世から近代にいたるまでと幅広く、パウル・クレーやパブロ・ピカソ、フェルディナント・ホドラーといった巨匠と呼ばれた画家たちの作品を所蔵しています。そんなベルン美術館の歴史とコレクションについて詳しく解説していきます。

■ベルン美術館とは

スイスの中でもチューリッヒ、ジュネーブ、バーゼルに次ぐ4番目の規模を誇る都市であり、スイス連邦議会議事堂の所在地である他万国郵便連合などの国際機関も置かれています。ベルンの歴史は1191年ツェーリンゲン大公ベルトルト5世によって創設され、1353年にはスイス連邦に加入。第一次世界大戦の際にはスイスが中立を保ったこともあり、社会主義者による第一インターナショナルや第二インターナショナルが開催されたことでも有名です。

そんなベルンにあるベルン美術館は、ベルン芸術アカデミーが1805年に創設されたことがきっかけとして設立されました。アカデミーは旧フランシスコ会修道院の建物に設置され、地元の芸術活動を推進することに重きが置かれていました。

アカデミーでは芸術教育が行われるほか、作品収集も行われるようになります。その後ベルン全体のコレクションの統合が進み、修道院や州立美術コレクションなどがベルン美術館のコレクションとなっていきました。こうした作品の多くは現在の美術館のコレクションの中核をなしています。

■ベルン美術館のコレクション

ベルン美術館のコレクションは中世から近代までと幅広いものであり、ギュスターヴ・クールベやポール・セザンヌ、アンリ・マティス、パブロ・ピカソなどの19世紀、20世紀に活躍した画家たちの傑作を所蔵しています。またフェルディナント・ホドラーやアルベール・アンカーなどスイス出身の画家たちの作品も充実しています。

そんなベルン美術館のコレクションには、どのような作品が含まれているのでしょうか。主要な作品をご紹介します。

・《パルナッソス山へ》 1932年 パウル・クレー

本作品は1932年に制作されたもので、後世の画家たちにも多大な影響を及ぼしたことで知られるパウル・クレーによって描かれました。

(Public Domain /‘Paul Klee, photographed in 1911’ by AlexanderEliasberg. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

音楽教師の父親と声楽家の母を持つパウル・クレーは、1879年にスイスの首都ベルン近郊のミュンヘンブーフゼーで生を受けました。音楽一家の中で、両親はクレーにバイオリニストになるための教育を施しました。しかしクレーは教科書やノートに似顔絵を描き、雑誌やカレンダーから画像をコピーし、空いた時間は風景をスケッチして過ごしていたと言います。
幼いクレーにとっては音楽も文学も絵画も全てが好ましく心地よいものでした。彼は長く己の進む道を決めかね、両親から勧められるバイオリニストと自身の憧れる画家の間で苦悩していました。
そしてついに18歳になるとミュンヘンのアパートに移り住み、私立のドローイングスクールに入学して分離派であったフランツ・フォン・シュトゥック教授に師事することになりました。

1911年にクレーは友人の紹介でワシリー・カンディンスキーという前衛芸術家と出会いました。
ワシリー・カンディンスキーと、クレーの友人であるアウグスト・マッケは「青騎士」という前衛芸術運動を主導していました。クレー自身は正式なメンバーにはなりませんでしたが、彼らと親交を深め、「青騎士」の展覧会には作品を出品しています。
その後クレーは兵役終えると1919年にミュンヘンの画商ゴルツと契約を結び、362点にもおよぶ最大のクレー回顧展を展開しました。これを機に、彼はヴァルター・グロピウスに招かれ1920年から美術教師としてワイマールのシュタットリッヒスバウハウスで教鞭をとることになりました。クレーはそれから精力的に芸術の発展と研究に注力していきました。

しかし、1933年ドイツ全土を制圧したナチス政府の退廃芸術狩にあい、彼は家族を連れて生まれ故郷のスイスへと亡命することになりました。亡命先でも沢山の作品を産み出し続けたクレーは、1940年1月に父ハンスを亡くし、同年6月に自身も体調の悪化により永眠しました。

本作品はそんなクレーによって描かれた、彼の傑作の一つとされています。1928年にエジプトへ4週間の旅行に行ったクレーが、ピラミッドにインスピレーションを得て帰国後に点と線のみで描いた作品です。パルナッソス山は中央ギリシャにあるアポロンとニンフを祀ったミューズたちが住むと言われている岩でできた山です。

(Public Domain /‘The night’ by Ferdinand Hodler. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

・《夜》 1889-1890年 フェルディナント・ホドラー

本作品は1889年から1890年にかけて制作されたもので、世紀末美術を代表する画家フェルディナント・ホドラーによって描かれました。

ホドラーは1853年ベルンで貧しい家庭の長男として生まれました。幼いころに家族や兄弟をすべて亡くしたということもあり、この時にホドラーに植え付けられた「死」というイメージが生涯ホドラーの作品につきまとうこととなります。

ホドラーの母親が再婚した義理の父親が装飾美術を手掛ける職人であったこともあって、ホドラーは絵画を学ぶようになります。フェルディナント・ゾンマーのもとに弟子入りしたのち、バルテルミ・メンの徒弟となるとその才能を認められるようになり、ジュネーブの美術学校に入学。徐々に評価を得て、フランス芸術家協会の会員となったほか、1904年のウィーン分離派展で作品が展示されるなど、世紀末美術を代表する画家として称賛されるようになっていきました。

ホドラーは画家として認められてからは最後までスイスで活動したことで知られており、「孤高の画家」と呼ばれています。

そんなホドラーによって描かれた本作品は、1891年にパリのシャン=ドゥ=マルスのサロンに出品されたことで注目を浴び、彼の出世作となったとされています。

絵画には健やかに眠る7人の人物が描かれており、中央の男性が黒い布の塊に伸し掛かられ驚いているように見えます。黒い布の塊は死の幽霊であり、眠る人々に死が暗喩されているとのことです。
そしてこの作品にホドラーは妻ベルタと愛人のオーギュストの間に自身をモデルにした男を描いたと言われています。

■おわりに

ベルン美術館はスイスのベルンにある美術館であり、中世から近代まで幅広い時代の作品を所蔵しています。特にスイス出身の画家たちの作品は非常に充実しており、フェルディナント・ホドラーやパウル・クレーの作品を鑑賞するにはもってこいの美術館といえるでしょう。

ベルンはスイスの首都ということもあり、各地から非常にアクセスのよい場所にあります。スイス芸術に興味のある方は、ぜひ足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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