チャルトリスキ美術館:ポーランド最古の美術館

チャルトリスキ美術館はポーランド南部の都市クラクフにある美術館であり、1878年に開館しました。もともとはイザベラ・チャルトリスカ公爵夫人によって1801年に設立された美術館であり、ポーランド最古の美術館として知られています。またそのコレクションの規模は、私立美術館としてヨーロッパ有数の規模となっており、ヨーロッパ絵画史に残る作品が数多く所蔵されています。そんなチャルトリスキ美術館の歴史とコレクションについて、詳しく解説していきます。

■チャルトリスキ美術館とは

チャルトリスキ美術館はポーランド南部の都市クラクフにある美術館であり、1878年に開館しました。クラクフはマウォポルスカ県の県都であり、17世紀初頭にワルシャワに遷都するまで首都が置かれていました。古くは西スラブ民族が定住し、モラヴィア王国やボヘミア王国などの支配を受けていたものの、14世紀にポーランド最古の大学であるヤギェウォ大学が設立されるなど、ヨーロッパでも有数の発展した都市となりました。第二次世界大戦中はナチス・ドイツによって占領されましたが、戦後復興を果たし、現在ではポーランドの工業や文化の主要な都市となっています。

そんなチャルトリスキ美術館は、もともとイザベラ・チャルトリスカ公爵夫人によって収集されたコレクションを基盤として開館しました。チャルトリスカ公爵夫人は1772年にパリを訪れた際に、ベンジャミン・フランクリンやジャン・ジャック・ルソー、ヴォルテールなどと交流したことをきっかけに、1775年に私邸で社交的なサロンを開くようになります。また若い芸術家たちのパトロンをつとめるなど、ポーランドの文化を支援した人物でもあります。1796年に美術館を設立することを決意し、当初の展示品には1683年の第二次ウィーン包囲において、国王ヤン・ソビエスキがオスマン帝国から奪った戦利品や、ポーランド王家の財宝なども含まれていました。

1830年にポーランドで11月蜂起が発生し、美術館は閉館させられたものの、1878年にはイザベラの孫によって再開され、現在もチャルトリスキ公爵が美術館を経営しています。

■チャルトリスキ美術館のコレクション

チャルトリスキ美術館のコレクションは、チャルトリスカ公爵夫人がイタリア・ルネサンスの作品収集に力を入れていたため、ルネサンス時代の作品が充実しています。加えてオランダやポーランドの画家の作品も数多く所蔵されており、私立美術館としてはヨーロッパ最大規模を誇っています。

そんなチャルトリスキ美術館のコレクションには、どのような作品が含まれているのでしょうか。主要な作品をご紹介します。

(Public Domain /‘Lady with an Ermine’ by Leonardo da Vinci. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

・《白貂を抱く貴婦人》1489年-1490年頃レオナルド・ダ・ヴィンチ

本作品は1489年から1490年頃に、イタリア・ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれました。

レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年4月15日、トスカーナ地方のヴィンチに生まれました。ヴィンチはアルノ川下流に位置する村で、「ダ・ヴィンチ」とは「ヴィンチ村出身の」という意味を指しています。レオナルドの幼少期については資料が乏しく、分かっていることはほとんどありません。しかし14歳となった1466年にアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房へ弟子入りし、ドメニコ・ギルランダイオやペルジーノ、ボッティチェリなど、初期ルネサンスから盛期ルネサンスにかけて活躍することになる芸術家たちと制作に取り組んだことが分かっています。

(Public Domain /‘Adoration of the Magi’ by Leonardo da Vinci. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain /‘The Last Supper’ by Leonardo da Vinci. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

《東方三博士の礼拝》や《最後の晩餐》など絵画史に残る傑作を描き、画家として活躍するほか、1502年にローマ教皇アレクサンデル6世の息子、チェーザレ・ボルジアの軍事技術者として活躍するなど、画家以外の分野でも活躍を見せており、その功績もあって1516年にフランス国王フランソワ1世に招かれることとなります。そしてレオナルドの最晩年は、フランソワ1世の居城であるアンボワーズ城の近くのクルーの館で過ごすようになり、1519年5月2日に67歳の生涯を閉じています。

本作品はそんなレオナルドによって描かれた絵画で、レオナルドの作品の中では比較的保存状態が良いとされています。描かれているのはミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの愛妾だったチェチーリア・ガッレラーニであるといわれており、レオナルドは1484年に、ミラノのスフォルツェスコ城で初めてチェチーリアに会ったといわれています。

チェチーリアが胸に抱いている白貂は、その毛皮が有力貴族や王族の衣装として珍重されることが多かったことから、所有者が上流階級であることを示しています。またアーミン勲章を受けたルドヴィーゴの故人を示す私的なエンブレムにも用いられていました。つまり貴婦人であるとともに、ルドヴィーゴの関係者であることを示唆しようとしたのです。

本作品は1798年にチャルトリスカ公爵夫人の長男であるアダム・イエジィ・チャルトリスキによって購入され、1800年にコレクションに加えられました。それまでの来歴は明らかになっていなかったものの、アダム・イエジィはレオナルドの作品と確信しており、のちにレオナルドがヴェロッキオの工房で習得した滲み止めのチャコールが検出されたことにより、レオナルドの作品と認められることとなります。


(Public Domain /‘Landscape with the Good Samaritan’ by Rembrandt van Rijn. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

・《善きサマリア人のいる風景》1638年レンブラント・ファン・レイン

本作品は1638年に、オランダ黄金時代を代表する画家レンブラント・ファン・レインによって描かれました。

レンブラントは1606年、ネーデルランド共和国のライデンに生まれました。レンブラントは大変優秀であったため、飛び級でライデン大学に入学できることとなりましたが、自身は画家になることを望んでおり、イタリア留学経験を持つヤーコプ・ファン・スヴァーネンブルフのもとに弟子入りし、画家としての修業を積んでいくことになります。

1631年になるとアムステルダムにアトリエを移し、肖像画を中心とした依頼を受けるようになります。登場人物にスポットライトをあてるドラマチックな表現が大変評判となったほか、レーワルデン市長であった父をもつサスキア・ファン・アイレンブルフと結婚したことにより、レンブラントの地位は盤石になっていきました。しかし高価な絵画や版画などを高値で買い求める姿は、プロテスタントが主流であったオランダでは嫌われる一因となり、徐々に依頼は減っていきました。その後1669年10月4日に63歳で死去。レンブラントの遺体は妻と息子が眠る西教会に埋葬されています。

本作品は、新約聖書「ルカによる福音書」の10章25節から37節にある「善きサマリア人のたとえ」を主題としたものであり、エルサレムからエリコに向かう道中で、強盗に襲われて道端に倒れていた人をサマリア人が助ける場面が描かれています。一見して風景画のように見えるものの、右側には身ぐるみを剥がされた人物と、それに気づくサマリア人と思われる人物が描かれており、聖書の一説でありながらどこかありふれた光景のように表現されています。

■おわりに

チャルトリスキ美術館はポーランド最古の美術館であり、歴代の王族や貴族たちの作品をコレクションとして所蔵しています。クラクフはポーランドの首都が置かれていたということもあり、こうした作品とともに古都クラクフの街並みを楽しむのもよいでしょう。クラクフを訪れた際には、ぜひ足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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