ノートン・サイモン美術館:アートコレクター、ノートン・サイモンが救ったパサデナにある美術館

ノートン・サイモン美術館はアメリカのパサデナにある美術館です。アートコレクターのノートン・サイモンの個人コレクションとパサデナ美術館のコレクションを基盤に、世界各国の幅広い芸術作品を展示しています。そんなノートン・サイモン美術館の歴史と所蔵品について詳しく解説していきます。

■ノートン・サイモン美術館とは

ノートン・サイモン美術館はアメリカのカリフォルニア州パサデナにある美術館で、1969年に開館しました。

前身は1924年に設立されたパサデナ美術館です。当初は19世紀のアメリカ・ヨーロッパの芸術を中心とした展示と美術研究を行っていました。パサデナ市との協力のもと美術館の建物が建設されると、ミス・ニコルソンからの支援やガルカ・シェイヤーからの寄贈によりコレクションが充実します。

1964年には新館の建設計画が立ち上がり、1969年11月24日にオープンを迎えました。このタイミングでラリー・ベルやアンディ・ウォーホルといった現代アーティストの作品が所蔵されています。さらに、マルセル・デュシャンの回顧展・バウハウスの展覧会などの企画で国際的な評価が高まりました。

1973年にはパサデナ現代美術館に改名しますが、新館建設時の負債を抱え続け、金銭的に困窮する状態に陥ります。しかし、アメリカの実業家でありアートコレクターであったノートン・サイモンが協力を申し出たことで、閉鎖を免れました。

1974年に改修工事がスタートすると、ノートン・サイモンのコレクションも美術館に移動しました。そして、1975年にノートン・サイモン美術館としてリニューアルオープンを果たしています。

■ノートン・サイモン美術館の所蔵品

ノートン・サイモン美術館では、19世紀の印象派を中心とするヨーロッパ絵画、南アジアや東南アジアの芸術品を数多くコレクションしています。

また、パサデナ美術館のコレクションであったモダンアートやコンテンポラリーアートの作品も豊富で、幅広い芸術にふれることができる美術館です。

そんなノートン・サイモン美術館のコレクションには、どのような作品が含まれているのでしょうか。主要な作品をご紹介します。

・《花瓶のチューリップ》1888年~1890年ポール・セザンヌ

(Public Domain /‘Tulipes in a Vase’by Paul Cézanne. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1888年~1890年に制作された作品で、ポスト印象派の画家ポール・セザンヌによって描かれました。

ポール・セザンヌは1839年にフランスのエクス=アン=プロヴァンスで生まれました。銀行経営者であった父の意向で法学部に進学しますが、親友のエミール・ゾラの勧めもあり画家を目指してパリへ旅立ちます。

パリではルーブル美術館に通い、カラヴァッジオら巨匠の絵に感銘を受けますが、エコール・デ・ボザールの試験に落ちてしまいました。私立の画塾で絵画を学び始めたセザンヌは、カミーユ・ピサロやピエール=オーギュスト・ルノワールと出会い、親交を深めます。

1864年前後からはパリのサロンへの応募を始めますが、エドゥアール・マネを中心とする革新的な芸術家が入選する一方、セザンヌは落選し続けます。結局彼が入選したのは1882年のことで、審査員アントワーヌ・ギュメの特権によるものでした。

(Public Domain /‘Cézanne with bowler hat, sketch’by Paul Cézanne. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

セザンヌの作品の評価が高まったのは晩年から死後にかけてのことで、回顧展は大きな話題となりました。この展覧会から影響を受けた主な画家として、パブロ・ピカソやアンリ・マティスらがいたことは有名です。

セザンヌの作風は年代により大きく変化していきます。初期作品では、ロマン主義的な暗い色調を好んでいました。友人のピサロから印象主義の技法を習得すると、一転して明るい色調の作品が多くなります。その後、モチーフの形をより簡略化し、シンプルな色で配色する画風に変化していきました。

本作品は、セザンヌが前衛的な若い画家や批評家たちからの評価を受け始めた時期に描かれた作品です。果物の静物画は多く残していますが、本作品はチューリップをモチーフにした珍しい作品です。テーブルと上部の花の光の対比が特徴的に描かれています。

・《山》1937年アリスティド・マイヨール

本作品は1937年に制作された彫刻で、近代ヨーロッパを代表する彫刻家アリスティド・マイヨールが制作しました。

アリスティド・マイヨールは1861年にフランスのバニュルス=シュル=メールで生まれました。織物商であった父はアルジェリアに仕入れに行くことが多く、幼少期は伯母に育てられました。

絵を描くのが好きだったマイヨールは1882年にはパリへ移りますが、エコール・デ・ボザールに入学できたのは1885年のことでした。しかし、アカデミスムの画家たちの授業に興味をもてず、ピエール・ボナールをはじめとするナビ派の画家や彫刻家アントワーヌ・ブールデルと親交を深めます。

1893年に故郷バニュルス=シュル=メールへ戻ると、タピスリー作家として活動を開始します。その後、タピスリーの細かい作業で目を悪くしたマイヨールは、彫刻家としての道を模索し始めました。

(Public Domain /‘Aristide Maillol 1925’by Alfred Kuhn. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

1902年に初の彫刻展を開催すると、1905年にはサロン・ドートンヌに出品し、裸婦像「地中海」で高い評価を得ます。彫刻家としての地位を確立したマイヨールはモチーフを裸婦像に限定し、晩年まで精力的に制作を行いました。

本作品は、マイヨールが1934年に出会ったディナ・ヴィエルニーという女性をモデルに制作した作品です。マイヨールの裸婦像の特徴は、ストーリー性を持たせずにシンプルな構成でまとめた点にあります。

・《オープングリーン》1923年ワシリー・カンディンスキー

本作品は1923年に制作された作品で、抽象絵画の創始者と呼ばれるワシリー・カンディンスキーが描きました。

ワシリー・カンディンスキーは1866年にロシアのモスクワで生まれました。モスクワ大学で法律を学んだのち、1896年からはミュンヘンで絵画を学ぶようになります。

1902年にベルリンの分離派展に出品すると、1904年以降はパリのサロン・ドートンヌに出品するなど精力的に制作を行っていました。1911年にはフランツ・マルクと共に芸術家サークル「青騎士」を立ち上げています。

ロシア革命が終了するとモスクワに戻り、前衛芸術を広めようとします。しかし、スターリンの台頭とともに評価が厳しくなったため、1921年にドイツへ移住しました。ドイツではバウハウスの教官をつとめ、晩年はパリ郊外のヌイイ=シュル=セーヌへ移り、生涯を終えています。

本作品は、カンディンスキーがドイツに滞在していたころに描かれた作品です。モチーフは、ロシア正教会の守護聖人「騎士聖ジョージ」であると考えられています。

■おわりに

ノートン・サイモン美術館はアメリカのパサデナにあり、19世紀のヨーロッパ絵画を多くコレクションしています。また、近代芸術・現代芸術作品も豊富で、幅広い芸術にふれたい方におすすめです。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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